見出し画像

中編小説「押忍」(40)

「隆さんが会社にいる日は毎日のように一緒に退社して、一緒にご飯食べて。調査員は出張も多かったから、会えない日は寂しくてね。あれは殆ど、父親が帰ってこない日の幼い娘の心境そのものだったね。タクミはツール・ド・フランスって聞いたことある?」
「自転車レース?」
「そう、世界最高峰の。あなたはそれについて何か知ってる?」
「競輪との区別もつかねえよ」
「それが日本での知名度よね。私ね、学生時代にツール―ファンはツール・ド・フランスをこう呼ぶのね―のポスターを見て、一瞬で心を持っていかれたの。アルプスの白峰をバックに山村の石畳を登る自転車集団と、それを応援する人たちのスナップに、こんなに素敵な世界が地球にはあるのかと」
「虚偽にまみれた医療証明書をハシタ金で買える世界も地球にはあるらしいけどな」
「私には時間があまり残されてないから、あなたのつまらない合いの手は聞き流すわね。毎年七月にツールの時期になると、私は有料放送の会員になって、わざわざ麻布に毎日寄ってレキップを買って」
「それは砂糖菓子か何か?」
「あんたもう少し社会勉強しなさい。フランスのスポーツ新聞よ。フランス語なんて全然分からなかったから勉強もした。ある夏の日の隆さんとのデート、ちょうどツール期間中だったの。夕食も麻布でとって、帰りがけにいつもの店でレキップを買って広げた時、香もツールマニアなの?と隆さんが聞いてきたの。驚いたわねえ」
「そういや慶ちゃんが言ってたな。兄の趣味は自転車ぐらいだったと」
「休日になると二人で自転車のプロショップに行ったな。デートコースはいつも同じ。ピカピカに磨かれてディスプレイされた自転車見て溜息ついて、値段見て更に溜息ついて、二人で顔見合わせて苦笑いして。そして丸善でフランスやイタリアの自転車雑誌買って、風景写真を眺めてまた溜息ついて」
 叔父の別の言葉が、僕の頭で渦巻いていました。
―兄は馬鹿だよ
―死ぬことはなかった
―妻への贖罪をちゃんと果たして、香さんと一緒になれば良かった
「小さい会社だったし、毎日英文報告の翻訳業務がある訳ではなかったから、私は庶務も担当していたの。他の人なら認めない接待費も、隆さんの領収書だけは素通りさせたりね。保険調査の後方支援みたいなこともやって、隆さんには多くのことを教えてもらった。あのねタクミ、保険調査員の仕事って、それはそれは広範囲な知識が求められるの。破損した自動車や燃えた家の壁を見て、その妥当性と損害額を瞬時に判断しなければならないから。隆さんは就職して四年で、自動車整備士と二級建築士の資格を取って、私が入社した頃には医療事務の勉強をしていた。私もレセプトの読み方を一緒に学んで、二人でコンビを組む機会も増えた。隆さんは分からない言葉をそのままにして一日を終えることは絶対にせず、そんな人が自分の恋人なんだと私は毎日内心鼻高々だった」
「結婚しようとは言われなかったの?」
「一度だけ、いつか一緒にツールを観に行こう、と言ってくれた。あれは隆さんなりにハネムーンのことを言っていたのだと思う」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?