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中編小説「押忍」(17)

「タクミくん、君はどこまで知ってるんだ?」
「それをあなたに話す必要がありますか?僕はここで今まで生きてきて、日常に特別な支障はありませんでした」
「―そうだな。私は以前から純粋な善意によって君を財政的にサポートしたいと考えていた。同時に香さん―君のお母さんが受け取りを拒まれることも分かっていた。グレかけていた中学生が更生を誓って空手の全国大会で活躍し、世界中の武道家と技術交流をしたいという理由で英語の勉強も頑張っている、そんな記事が私にこの家へ足を向けさせてくれたのも事実だ。相応の努力には私たちもご祝儀を出さずにはいられない、そんな大義名分ができたからね」
「くだらない」
「その通り。いい大人がずっと意地を張り合ってきた。くだらないついでにこの話もしておこう。僕には娘が一人いる。君にとっては従姉妹になる。もうすぐ小六になるが、来年予定していた中学受験をやめると言い始めている。私立中学で似たようなタイプの友人と交わるより、色んなバックボーンをもった子が集まる公立中学の方が学ぶことが多いはずだ、というのが本人の主張だが、ただ勉強から逃げるための言い訳にしか聞こえなくてね。そこへ君の記事だ。正直複雑な思いだったよ。でもそれで、香さんが君を育ててくれて本当に良かったと思うことができた」
「言い訳だと決めつけているのはあなたの方でしょう。私立に行けないのではなく行かない、という主義の根拠には一点の曇りもないように思えますが」
 そんなことを僕は喋った記憶がありますが、実はよく覚えていないのです。
 吐き気まで感じていました。視界が歪み、真っ直ぐ座っていられない感覚も。
 俺に、従姉妹?
 叔父がいる以上、従姉妹の存在は想像して然るべきでした。しかし僕はそうした憶測自体を潜在的に拒否していたようです。親戚など一人もいないと教えられながら育ってきた自分に、よりにもよって同世代の親類がいて、彼女とはどこかですれ違っているかも知れないという思いが、なぜか僕を深い穴に沈めていくようでした。
「君の意見は妻にも伝えておく。ただタクミくん、親というのはそんな風に簡単には割り切れないものなんだよ」
 黒い塊がまだ胸の奥で蠢いていて、今頃になって従姉妹の存在を唐突に明かした目の前の男に対し、汝の隣人を愛そうという気持ちにはなれませんでした。
「子育ての愚痴なら他所でしてください。あなたは母が過去に何度学校に呼ばれたかご存知ですか?」
 
 飲み屋の呼び込みが手を叩き、ゲームセンターからの音楽が夜の空気を震わせていました。伊勢佐木モールの喧騒は、いつも通りの喧騒でした。
「―先程は言い過ぎました」
「いや。タクミくんの言う通りだ。香さんが背負ってきた重荷に比べれば、僕ら夫婦の悩みなど取るに足らないものだ」
 僕は「叔父」を関内駅まで見送るために歩いていました。失礼な言葉を謝罪するためではありませんでした。彼との質疑応答を、母さんには聞かせたくなかったからです。
「もう一つ教えてください」
「何なりと」
「僕の父はいつ死んだのですか?」
 回答まで八歩分の時間を要しました。「君が一歳の時だ」

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