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「伊豆海村後日譚」(16)

 フリゲート艦に立ったハン・ガンスを、一糸乱れぬ正確さで並んだ乗組員一同が睨みつけていた時、その中にチェ・ヨンナムもいた。
 ヨンナムもまた鳴り物入りで満海人民軍に入隊した者ではあったが、そのバックボーンが明晰すぎる頭脳、その他大勢を睥睨するような戦闘能力、あるいはパク・チョルス直々のスカウト、といった種のものではなかったことが、最初から中尉という階級で軍隊に迎え入れられた彼を比較的速やかに周囲に溶け込ませることに成功していた。
 加えて彼自身の謙虚な正直さも、その一助となった。彼は自分の過去を決して脚色化も矮小化もせず話すことができた。そんなものは能力ではなくその人の性質だ、という者は、自身と周囲を見つめ直してみれば良い。そんなことが日常的にできている人間が、一体どれくらいいるだろうか?
 ロシア国境にほど近い沙草峰高地にある貧しい村ー貧しくない村などなかったがーに生まれたチェ・ヨンナムは、ある身体能力に恵まれなければ、そのまま寒村の貧農として一生を終えていたはずだ。
 共同井戸が枯渇し、村人総出でようやく掘り当てた乏しい、それでも何も出ないよりはまだマシと言えた新たな水脈が、生家から八キロ近く離れていたことも、その先天的能力を更に研ぎ澄ます要因となった。
 十一歳の時、選抜児童を対象とした体力測定会において、裸足で十キロを三十一分三十秒で駆け抜けた彼の家にはそれ以降定期的に豚肉が届けられるようになった。十三歳で義務教育を終えたチェ・ヨンナムは、オリンピック選手を育成するアカデミーで新たな生活を切ることとなり、生まれて初めて見た蛍光灯に心底驚いたが、それを表情に顕すことはなかった。
 百六十センチという身長は、慢性的な飢餓が国中を覆うパク王朝にあって平均よりもやや低いぐらいで、四十五キロの体重と合わせ、食生活が改善された後もその体格が変化を示すことはなかった。周囲の柔道やレスリングの強化選手たちの彫刻のような体にコンプレックスを感じないこともなかったが、どれだけ食っても太らない体質は長距離走選手としては垂涎の対象でしかなく、多くの才能ある若者が過酷な練習や成長の余地を失った身体能力や精神的な問題等によって落伍していったが、彼は五年後もアカデミーに残っていた。
 第二の転機は十八歳の時に訪れた。
 大学生の身分を与えられ参加したユニバーシアード仙台大会の一万メートル走に参加したチェ・ヨンナムは八位入賞を果たした。オリンピックでメダルを取ればハスン市内のアパートや高級腕時計が与えられたあの国で、ユニバーシアード八位という成績は特に物的報酬を導くものでもなく、彼自身もこの結果に自分がオリンピッククラスの選手ではないことを改めて自覚せざるを得ず、これを機に競技者を引退し故郷に帰らせてもらおうかと考えていた。そしていざ帰国し、自分の名が全国区になっていることを知った。
 最後の百メートルスパートで、彼は韓国と日本の選手を追い抜いたのだ。
 その巧妙に編集された映像が満海中央放送によって繰り返し放送され、チェ・ヨンナムは積年の大怨ある日帝で開催された大会で、憎むべき敵国の先兵を立て続けに抜き去り栄誉ある結果を果たし、親愛なる大将の類まれなるリーダーシップに率いられた我が民族の優秀さを観客席の日鬼どもに知らしめ戦慄をもたらしたと、あの独特の抑揚でアナウンサーが絶叫した。アナウンサーは彼の前にゴールラインを踏んだ七名のランナーについては一切触れることなく映像からもそれは確認できなかった。
 ヨンナムは間もなく満海労働党への入党を推薦され、マラソン選手を引退したい旨を伝えた際はひと悶着あったものの、その才能と将来の展望についてはコーチも彼と同意見であったことも幸いして、栄えある海軍東海艦隊の中尉として第二の人生をスタートさせた。
 ハン・ガンスもチェ・ヨンナムも、パク・チョルス少佐率いる海軍東海艦隊ハスン第一戦隊の正規軍として自国の崩壊を見た。最初から勝てる戦争ではなかったし、それ以前に満海人民軍は、いみじくも新井が指摘したとおり、その厚いベールの外側から周囲が勝手に想像していたほどには強固な軍隊でもなく、狂信的な集団でもなかった。そもそも戦闘機の油からして前世紀から枯渇しており、軍事パレードでお披露目されていたミサイルの殆どがアルミ製の張りぼてであったことも、この地が旧満海民政化信託統治領となった後、国連軍によって暴露されている。
 核ミサイルが無事打ち上げられたこと、それが目論み通り南南東の方角へと飛んだこと、日本海を越えたこと、日本の領土を通過中も捕捉されなかったこと、ミサイルに搭載された原子爆弾が本当に使用可能なレベルにあったこと、それがちょうど東京都上空で爆発したこと―の複合的確率を後にアメリカ国家安全保障局が試算したところ、導き出された回答は「ゼロパーセント」であったと言われている。事実その六時間後には「先軍政治」国家は何もできずに瓦解し、首都を防衛する戦闘機版ビンテージとも呼ぶべきミグ15は死んだ蝉のようにぴくりとも動かなかった。
 それ以前に正規軍は既に、「腹が減っては戦もできぬ」を具現化した存在と成り果てていた。彼らにとって最大の敵は米帝でも日帝でも南朝鮮でも金日成王朝でもなく飢餓であり、彼らが毎日最も時間をかけて行うのは軍事演習でも体力訓練でもなく野菜の栽培や雌鶏の飼育であり、それを面倒がる部隊は近隣の農村をしばし襲撃した。
 「のぼせ上ったアメリカ好戦主義者どもに正義の鉄槌を振り下ろす」機会を虎視眈々と狙っているはずだった兵士たちの大多数は、現実にはただ軍服を着た農業従事者、軍服を着た盗賊でしかなかったが、チョルスの部隊はその数少ない例外だった。彼らには覚醒剤精製工場とのコネがあり、受け取った商品を「海の向こうの金満国家」に小売で捌くイリーガル団体とのパイプがあった。彼らは日本の菓子をたらふく喰らい、当時は曲がりなりにもアジア最強の通貨であった日本円をがっちり握り、パク・スンヨプ初代国家主席が農民に限り開設許可を与えていたとされる自由市場で家族親族への食料を周りのやっかみを引き起こさぬ程度の控え目さをもって購入し、各々が一族の希望の星となっていた。
 音に聞こえた海軍東海艦隊ハスン第一戦隊は国内の若者にとって憧れの就職先となり、同戦隊から更に少佐自身が直接選定した常時四十名程度の特殊部隊が発足した後も、ガンスとヨンナムは最後までその四十名の中心選手であり続けた。
 彼らには周囲が憶測するようなライバル心は互いに全くなかった。ナンバーワンが突出して偉大過ぎるグループにあって、ナンバーツーになろうがナンバースリーに甘んじようが、その結果に差異はない。無論、この二人に心温まる友情が存在した訳でもなく、自分の生命を確保するために適切な相棒が必要だと思われた時、単に相互を利用するだけの間柄であり続けた。
 
 かくして二人は今、軍隊時代にそうであったようにコンビを組み、明日もまた生き残るための措置を共同で講じようとしている。新たな携帯電話、新たな身分証を求め、細い通りに二人は入った。明かりの漏れる家は、五軒に一軒程度。残りは無人か、目立つことを恐れてひっそりと暮らしているか、電気料金を払えなくなっているか、センの連中であるか、のいずれかだ。
 ハン・ガンスは曇りガラスの玄関からうっすらとした照明が確認できる家の前で足を止めた。表札には「元山」の文字。
 ガンスとヨンナムは素早く視線を交わし、その家の玄関ドアを開けた。施錠されたドアを開けるのは、軍隊と裏社会で禄を食んできた彼らには造作もないことだった。
「誰かいますか」
 家の中は人の気配が濃厚に漂っていたが、返事はなかった。
 二人は拳銃にサイレンサーを装着しながら、家の奥へと進んだ。そこには台所があり、ビニールクロスがかけられたテーブルに、五十代の夫婦おぼしき二人が着席していた。
 闖入者がそこに現れた時、ちょうど妻は立ち上がり、テーブルに置かれた鍋から何かを椀につぎ、夫はそれを受け取るところだった。二人とも言葉もなく、パニックを起こした様子もなく、いきなり登場してきた異物を見向きもしなかった。
「何だあんたたちは」ハン・ガンスは思わずそう語りかけ、夫が答えた。
「それはこっちの台詞だろうが。今ニュースで繰り返し流れている。あんたらはそのうちの二人か」
 無言のまま自分に冷えた視線を注ぐ二人の兵士に構うことなく、夫は続けて妻に声をかける。ニュースの顔写真とは随分違うな。
 鍋の中にしか興味がないように見えた妻は、その言葉にようやく首を回し二人を眺めた。
「マンヘ時代の写真だったのでしょう、あれは」
 一般に日本人は「満海」を「まんかい」と発音する。
「あんたらは同胞か」
 チェ・ヨンナムも口を開いた。
「勘弁してくれ」男は手を振った。
「おまえらは金日成を恐れて逃げた意気地なし一族の靴を舐めて生きてきたんだろう?そんな犬野郎と俺たち日本で頑張ってきた在日を一緒にするな」
 その言葉にハン・ガンスも気がついた。日本に帰化した在日朝鮮人の一部は、それでも故郷と自分を繋ぎとめる民族的アイデンティティをどこかに残そうとして、故郷の地名を苗字とする、ということを。この男もまた、その先祖は北朝鮮東岸の街、元山の出身だったのだろうか。
 それにしても、同じ朝鮮民族に対して何たる暴言か。彼らの間で「犬」というのは最大限の侮蔑を意味する。拳銃を右手に乱入してきた男たちにかける言葉としてそれを選んだのなら、このテーブルに坐したままの五十男はよほどの胆力の持ち主か、精神的常軌を逸しているのか、常軌を逸した胆力の持ち主のどれかだ。
 ヨンナムは銃の狙いを男に定めた。
 男は薄笑いを浮かべた。「撃ちたきゃ撃てよ、犬野郎」
 妻も続いた。その視線は再び鍋へと戻されている。
「この人を殺ったら、次は私の番かしらね。どうぞご自由に。でも一つお願い。このおかずは絶対に食べないで。あんたたちの腹を満たすために作った料理じゃないから」
 銃を握ったまま立ち尽くす兵士の困惑は高まる一方だった。
 壁の向こうに警察が大挙して待ち構えているとでもいうのか?
 日本で葬り去ってきた相手。大方はバリバリの極道だったが、半分以上は土下座し涙を流して命乞いしてきた。金なら幾らでもやる、何でも言うことを聞く、という嘆願も、判で押したように同じだった。天下の山蛇組に命を狙われるのは、天下の山蛇組に命を狙われるだけの理由があるからだ。それを充分に理解していた数人の者は最初から諦め、達観した笑顔を見せ、余裕のある態度を最後まで演じ切ろうとしたものの、震える足やせわしなく動く瞼や濡れた股間から漏れる異臭が、そうした努力を無にしていた。
 この夫婦のような態度は、二人とも初めて見るものだった。
「死にたがっているように見えるが」
 ガンスの問いかけを黙殺した男は手を伸ばし、茶の入った湯呑を持ち、それをゆっくりと飲んだ。
「今俺の奥方が言った通りだ。おまえたちに出す茶はないから、俺たちを殺した後喉が渇いたら蛇口から水道水でも飲んでくれや」
「同胞を無駄に殺したくはない。身分証明書と携帯電話、そして一夜の宿泊だけ提供してくれればー」
 ガンスの言葉は、男が咄嗟に立ち上がり咄嗟に投げつけた湯呑によって遮られた。それは人民軍のエリートだったヨンナムに銃弾を発射させる暇も与えないほど素早い行為で、ガンスの額から赤い液体を流させるほど正確無比なコントロールだった。
 落ち着いた物腰だった男は、唾を飛ばして獣のように叫んでいた。
「俺たちの子供はなあ!おまえらのクソ指導者が自棄っぱちに押したボタンのせいで皆死んだんだよ!これ以上おまえらは俺たちから何を望むんだ!」
 咆哮しながら男は泣いていた。その妻も涙を流しながら、しかしその眼はしっかりと二人の元敵国兵士を睨み据えていた。
 男は脱力したように、再び椅子に腰を落とした。
「身分証明書ならそこの茶箪笥の真ん中の引き出しだ。携帯は家のどこかにある。早いとこやってくれ」

 十分後、ハン・ガンスとチェ・ヨンナムは夫婦の死体を風呂場に横たえ、窓を閉めてテープで目張りをした。台所の血を黙々と拭き取り、死者へのせめてもの儀礼と、残された食事には手を付けなかった。
 和室には仏壇。それはこの半島からの移住者の子孫が、新世界の秩序に自らを嵌め込もうとした葛藤の象徴のようにも思えた。二人の兵士はこの社会の慣例に倣って、仏壇に向かって膝をつき、手を合わせ、早すぎる死を迎え今夜両親をも失った同胞の魂のために、しばらく黙祷した。
 密告と裏切りが渦巻く閉塞した社会体制と慢性的な飢餓によって、満海人民は軒並み実年齢から十や二十は年老いて見えた。パク・チョルスの部下となることで少なくとも飢えからは解放された半生を送れたものの、強烈な緊張と得体の知れない恐怖に常に追われていた二人も、四十二歳という年齢ながら、新たに手にした「元山栄一郎、五十三歳」、「元山悦子、五十歳」を騙ってもさほど不自然さはなかった。元山栄一郎の生前の写真は、ハン・ガンスとさほど似ている訳でもないが、まるで似ていない訳でもなかった。最悪の状況なら使用するに吝かでないと彼は判断した。どのみち人は見たものをそのまま視覚情報として取り入れる生き物ではなく、見たいものだけを都合よく脳内変換し取り入れる生き物だ。
 二人は二階で眠りー満海人民軍に限らず、どのような状況下や精神状態にあろうとも眠るべき時間に寝入ることができない軍人は淘汰されるー翌朝、きっかり五時に目を覚ました。ガンスは頭髪の一部を剃り、丸めたティッシュペーパーを口の中に詰める。今や元山の遺品となった上着はサイズもちょうど合った。
 身長百六十センチ、体重四十五キロの体格と、長距離走で培った細く均整のとれた足。喉仏も小さかったチェ・ヨンナムは海軍入隊後、潜入工作員予備メンバーとして、女に扮して異国で工作活動を行う訓練を受けた経験があった。
 そして誰にも、パク・チョルスに対しても頑として明かさなかった秘密。過剰な負荷を精神に負った者が時として倒錯した趣味に走るように、いつしか女装は彼の職業行為の範疇から逸脱していた。人民軍時代にそれが誰かに悟られていたら、今頃彼は北の凍土の下で白骨化していたはずだが、チェ・ヨンナムの異常に上達したメイクアップ技術は、あくまでも敵を欺くための軍人としての前向きな姿勢の賜物と好意的に評価されていた。
 そして今、彼は髭と脛の毛を処理し、頬にファンデーションを塗り、生活に疲れた五十歳の沼津市民である主婦に相応な化粧を施し、元山悦子となった。
 二人は沼津駅までの木炭バスに乗り、街中に溢れる警察の誰一人からも呼び止められることなく、七時五分前に沼津駅前のロータリーに着いた。

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