くぐる、っていいよね


今日も私は、くぐる。

玄関口を、くぐる。
橋の下を、くぐる。
暖簾を、くぐる。

何かをくぐるたびに、自分がどこか生まれ変わった気がするのは、気のせいだろうか。


どこでもドア。
国民的漫画 (アニメ)、『ドラえもん』に登場する、おそらく最も有名な秘密道具の一つである。
桃色のドアをあけると、どこでも好きな場所へつながっているという、アレだ。

この、どこでもドアについて、怖い話を聞いたことがある。
あのドアをくぐった者は、分子レベルで分解されて、ドアの先でそのコピーが生成されるのだ、とかいう。。。
つまり、ドアをくぐる前の「わたし」は、そこで死ぬのと同じようなものである。一方で、「わたし」以外の人間にとっては、「わたし」は死んでいないと言えてしまう。

この問題は、哲学者デイヴィッドソン考案の思考実験、スワンプマンと同じ構造だ。


もちろん、これは架空の話だし、普通のドアをくぐりぬけるたびにそんなことが起こったら、生きるってなんやねん、ともなりかねない。


けれど一方で、くぐる度に自分が生まれ変わってるんだ、と考えるのもなんだか素敵じゃない?と、私は思うのだ。


例えば我々は普段から、沢山のドアをくぐりながら生活している。

家を出る時。
電車に乗る時。
部屋に入る時。

家を出る前の玄関にいる私と、家を出た後の外出時の私。
この2人は、同一だろうか。
前後で何かが変わってる気がしないだろうか。

「いやいや、同じに決まってんだろアホか」
と思われる方が大半だろうが、ちょっと頭を柔らかくして考え直してみてほしい。

そして、以下の様子を想像してみてほしい。


ドアをくぐった瞬間、私たちは一度完全に分解されて、すぐに同じものとして再構成される。くぐる前とくぐった後で、物体としては何も変わらない。けれども、存在として何かが変わっている。
一度、生まれ変わっている。


ここで私が想像したいのは、スワンプマンのようなある意味「怖い」話ではない。
私が複製されて、元の私は死んでしまうとか、そういうことではなく、
私はあくまで私のまま、一度生まれ変わる、ただそれだけのイメージだ。


その「生まれ変わり」を、何かをくぐる度に繰り返して、
目には映らないところで、
物質としてではなく存在として、
人は段々と変化していくのだろう。


...なんて。


最近の私は、こんな想像をして楽しんでいる。

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