「違い」こそが「人」たらしめる

こんばんは。
アル中アスペ間欠性爆発性障害持ちのすぱとーふです。
わたしは精神薬を服用しており、
見ての通り社会不適合レベルの要素を併せ持ってるのに
ギリギリで生きてるような人間です。
そんな中でも、わたしはマトモな人間でいられるように
試行錯誤を重ねて生きております。
今回はそんな過程の折で見つけ出した、
楽に生きれる方法をお伝えしていきます。
暇つぶしがてらにお付き合いください。

まず、人は怒り狂うときに「物差し」を基準に
怒りのバロメーターが決まります。
この「物差し」は何かといえば、
自分自身の価値観に他なりません。
頭に来たって思っていることは、
実際は自分自身の価値観に左右されているのです。

では、そのような邪念を払うにはどうしたらいいか?
答えは簡単です。「違い」に目を向ければいい。
そうすれば怒りは簡単に収まります。
そうはいっても証拠がなければ話になりませんよね?
では今から示すとしましょうか。

まず、物質というものはそれぞれ違う特性を持っており、
まったく同じ見た目をしたものでさえ、
細かく突きつめていけば根本的には違うものとなります。
簡単に言うならば、身近にある野菜などでしょうか。
見た目的にはまったく同じ見た目ですが、
本質的に突きつめていけば重さや見た目が違ってくる。
人間も突きつめていけば同じ壁にぶちあたるのです。
これはどういうことかということを、
次項で詳しく解説します。

さて、解説していくとしましょうか。
まず、人間は生まれ持った環境により成長します。
これに関しては生まれた人間当人には選択権がなく、
周囲の環境すべてによって左右されていきます。
つまり何が言いたいかというと、
どれだけいい性格であろうとしても
周囲が極悪人ばかりなら極悪人になるしかないのです。
無論、対極に関しても例外ではありませんが。
つまるところ、善人か極悪人かは環境によって決まり、
自分自身ではどうすることもままならないのです。

ここまで見ていただけた方なら、
大方の結論の予測はつくのではないでしょうか。
つまるところわたしが言いたいのは、
「善人悪人は生まれ持って決まるため、そこにいちいち苛立ちや殺意、悪感情を持つ必要はどこにもないという話」です。確かにこの世にはとんでもない極悪人も、聖母のような善人も存在します。しかし、それは生まれ持って与えられた環境下により仕方なくそうなったかでしかないです。自分自身で選ぶ自由がないのがこの世界、極悪人か善人かは生まれ持って既に決まってることなのです。環境がすべてを決めてしまうなら、ある程度は捻じ曲げられても根本的には変えられないのです。

こう思うと、善人悪人と考えて捌き合うのが馬鹿馬鹿しく感じてこないでしょうか。私はそう感じて止みません。わたしたちは裁判官でも神様でもありません。ただただ誰かのあるがままを認め、時に突き放すことしかできないのではないでしょうか。

今日も理論で世界が救われることを祈っております。
それでは。

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