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花鳥風月


<花鳥風月>

私は20代のころ生まれた場所も、育った場所も、そして人間たちも嫌になって逃げこむように原生林を旅していた。それでも一定期間、山に篭った後はいろんな理由をつけては街に帰ってきていた。

原生林から街に帰ってきて気づいたことがあった。私には着飾った人たちの表面的な華やかさの裏にはそれと同様の影を感じ取っていた。誰もが何かを抱えて、何かを背負って生きているということに。それを誰にも気が付かれないようにポケットにしまいこんでいることに。誰もが不安の中、それを握りしめていることに。

誰もが諦めたくなることがある。誰もが弱気になって、疑心暗鬼に陥ってしまうことがある。誰もが心を病み、体調を崩してしまうことがある。誰もがテレビや映画の主人公に憧れて、SNSの世界に希望を持って、自分との違いに落胆することがある。

にも限らず、いつの間にか「自分だけ」がこの境遇にあって、「自分だけ」が弱々しい存在なのだと勘違いしてしまう。「自分だけ」が才能のない、負け組の人生を送っているのだと思い込んでしまう。

私にとって10代後半から20代前半にかけての人生(私はこの期間を人生どん底期と呼ぶ)はまさにそんな感じだった。それでもその世界にどっぷり使っている間は、そこが世界の中心であり、どうやってもその外側に違う世界があるとは思いもしなかった。そう、初めて山に行くまでは。

その世界の中心から逃げるようにして、一番遠いところへ、辺境へ旅をした。99.9%の人は私とすれ違った。全く違う服装と荷物を持って、全く違う髪型と眼をして。私だけが反対向きに歩いていた。

辺境にたどり着いた井の中の蛙は初めてそのとき、自分がことわざの登場人物だったことに気がついた。そして振り返って世界の中心を見た。しかし、もうそこは辺境であって、今ここが世界の中心だった。

そのとき私には自分が異様で特殊な環境に身を置いていたことに初めて気がついたのだ。この地球上で現代的な街ほど特異な場所だった。現代社会が特に異様なのは、そこに花鳥風月がほとんどないからだ。眼を凝らせば確かにある。しかし、それは申し訳ない程度に存在していて、都合が悪くなれば綺麗に消し去られる。隠される。

代わって都市部以外の地球では花鳥風月が99.9%以上占める。そのなかで人間と人間が作り出したものは申し訳ない程度に存在しているだけで、脇役に過ぎない。他の生命たちはそんな脇役を気にせずに闊歩する。

環境が真逆なら、そこに存在する生命たちの論理もまた真逆になっているようだった。都市部の人たちはちっぽけな自然をコントロールできると考えるが、周縁部の人たちは圧倒的な自然を前にして諦めることを知っている。

どの本に載っていたことなのか忘れてしまったが、イジメの被害を受けていた人や精神的な病(鬱など)になってしまった人などの日記やブログを調査した論文を読んだことがある。その調査によると、その日記に出てくる悩みや人間関係のもつれは平安時代の貴族たちと形は違えど、中身は全くと言っていいほど違いがないという。しかし明らかに違う点があるという、それは彼らの日記に出てくる登場人物は「人間だけ」だったことだ。

現代人誰もがみな「人間の世界だけ」になっている。人間同士だけで生きて、人間同士だけでコミュニティを築き、人間同士だけでやり取りしている。彼らと話していても「花鳥風月(自然)」の話が出てこない。出てくるとしたら花粉症や辺縁部で起きるクマ被害などの話のような問題についてばかり、だ。

都市部から辺境の地へ旅をした私にとって、その論文にはうなずくことばかりだった。人生どん底期から今現在に至るまでの、私の心の中に、人生の物語に出てくる登場人物は、人間だけから花鳥風月ばかりへと変わっていたからだ。その変化の中、私は少しずつ人間特有の生きづらさから解放され、地球の中のひとつの生命であるヒトとして喜怒哀楽を生きてきた。

私が観察を大事にしてることはここに繋がってくる。畑ノートに作業のことだけではなく、観察して気がついたことを書くことを勧めている理由もここにある。畑は決して自分や家族が食べるための作物を栽培するためだけの場所ではないし、収穫物以外にもたくさんの恩恵を受けられる場所だ。

畑はときに学校ともなるし、宗教施設ともなるし、憩いの場ともなるし、リラクゼーション施設ともなる。
足元の草花に癒されることもあるし、小さな昆虫に励まされることもあるし、思いも寄らない里山の獣と心を通わせることもあるし、運命の出逢いを果たすこともある。

花鳥風月の世界には嘘がない。だからどんなときも受け入れることから始まる。生きている人間は嘘をつく。だからどんなときも不安がつきまとう。

自然の中にも人間にとって都合の良いこと悪いことがある。それは理解できるものもあればできないものもある。身近なものから災害のような手に負えないようなものもある。それこそが自然であるからこそ、頭でくよくよ悩むことよりも、身体を動かすことで生きていける。

なのに人間の社会ではずっと理不尽で悪いことばかりが起きることがある。それがイジメ。鬱。頭で考えても何も解決しないばかりか、物事はどんどん悪い方へ向かっていく。その世界だけにいると苦しくなる。

私たちは社会的な生き物であるからこそ、人間の世界から完全に切り離して生きることは難しい。しかし人間の世界の他に圧倒的に大きな花鳥風月の世界があれば、人間の世界の出来事が小さく見える。大変な問題だと持っていこともしょうもなく思える。

雑草を見ていれば、どんな環境よりも過酷で、誰にも褒められていないのに、太陽に向かって堂々と生きているのが分かる。どこでも生きていける。

猫を見ていれば、どんな人間よりも身勝手で、わがままで、自由気ままなのに生きているのが分かる。それでも生きていける。

私たちの思い悩みに関係なく季節は巡り、月は欠けては満ちる。すべての生命はそれに合わせて、それに呼応しながら生きているのが分かる。そうやって生きている。

どんなときも生物多様性の中で生かされている。どんなときも私は風を感じながら野良仕事に勤しみ、どんなときも月を見ながら日々を想う。それでも生きなくちゃと言葉を漏らす。

パウロピカソは言った。「芸術は悲しみと苦しみから生まれる」と。サティシュは言った。「誰もが皆アーティスト」だと。私は想う。悲しみと苦しみは花鳥風月と出逢うことで、芸術へと生まれ変わるのだと。観察は私たちヒトと花鳥風月のその狭間にいて、それらを繋ぐ橋なのだ、と。平安時代の貴族たちの日記が文学作品として後世に読み継がれているように。

私たちの農ある暮らしもまた花鳥風月を観察することで芸術作品となるに違いない。そのとき農は農業ではなく、農藝の道を辿ることになる。

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