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耕すはテクニックだ


<耕すはテクニックだ>

え?自然農なのに耕すんですか?とよく聞かれる。最近では土壌を耕すと生態系を破壊すると批判される。しかし考えてみてほしい。人類が農耕を始めて1万年間ずっと耕してきたのに、どうして人類は発展し続けてきたのか。耕すたびに生態系が破壊されるのなら、もうとっくに人類は絶滅しているはずだ。
農家が大型機械を使って毎年のように耕すにも訳があるし、昔の人々が毎年耕しているにも訳がある。これは自然農に限らず、家庭菜園を成功させる上でとても大切な話である。

農家は浅耕、中耕、深耕の3つを使い分けている。耕起と耕耘も状況に合わせて使いこなす。これら使い分けにはそれぞれ、目的も意味もある。

不耕起をうたう自然農法家も実は耕している。主にイネ科の植物の力を使って耕す「自然耕」で、中耕と深耕のふたつを兼ねている。これは鍬や機械を使って耕すのとは少し違う部分がある。どちらかというと自然耕は土壌改良の意味合いが強い。

ではなぜ、農家はわざわざ鍬や機械で耕すのか???それはずばり「荒らす」ためである。この言葉のせいで環境活動家は耕すことを嫌がる人が多い。

しかし、言い方を変えてみると、耕すことがテクニックであることが分かる。耕すとは「自然遷移を止める」である。

自然遷移では荒地から森林へと変化していく過程で育つ植物が変わっていく。
自然攪乱が起きた場所で真っ先に育つ植物をパイオニアプランツと呼ぶのだが、このパイオニアプランツを同じ場所で育てるには常に荒地にして環境を整えてあげる必要がある。なぜなら、彼らは荒地でよく育つような才能を持っているから。

荒地でよく育つ野菜であるマメ科やサツマイモ、キクイモを育てたいなら毎年11月と3月に耕すことで常に荒地を維持する。日本では勝手にどんどん進んでしまう自然遷移を止める、のである。

世界の文明が河川の河口域・氾濫地に発達したのは洪水によって上流部の肥沃な土がもたられるためだが、その攪乱によってパイオニアプランツの育つ条件が整うためでもある。このパイオニアプランツの中から進化したのが山菜であり、雑草であり、穀物や野菜たちである。つまり、農業で栽培する作物の多くは荒らされた環境を好む。

世界的に農業で栽培される草本類はほぼ間違いなく一年草である。
モンスーン気候帯では一年草は多年にわたって安定した群落が作れない。洪水の後に露出した土地に一年草の大群落が自然にできるのが観察できるだろう。しかし、そのままだと多年草に取って代わってしまう。
だから、人間は耕すことで常に一年草が育ちやすい環境を提供している。

特に日本のようにすぐに自然遷移が進んでしまう環境では耕すことは、除草以上に大きなメリットがある。日本人が積極的に耕すようになったのは江戸時代中期以降だが、それは堆肥の使用によって残留養分が過多になってしまったからだ。畑から余分な養分を取り除きたいときも耕して荒らすことはとても有効な技術だった。

「耕す」は実はとても深い。
耕すべきか耕さないべき、浅耕・中耕・深耕・自然耕どれを使うべきか
それを使い分けるには知識も必要だが、経験も勘も必要である。
二宮尊徳は「土を耕す前に心を耕せ」という言葉を残した。土を耕すには土壌診断から風土の観察、栽培する作物に関する知識、生き物への配慮、最適なタイミング、深さや頻度など頭も心も努力することを求めたからである。土を愛するものが耕せば、生命は輝く。

人は耕すことで自然に逆らう。逆らうことで人は学ぶ。自然に抗うことから学ぶことがたくさんある。だから、農業の発達は文明の発達と同調したのだ。土木をアースワークと呼ぶように、耕すことは地球との対話なのかもしれない。


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