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併合時代のケイコとマナブ~立身出世から恋愛上手、催眠術まで。半島100年前の習い事・趣味・お稽古ブームとは

大正天皇と朝鮮語

 大正天皇が朝鮮語を話せたというと驚く人が多い。日本が朝鮮を支配するにあたって、文化抹殺のために民族の言葉を奪ったという“俗説”が未だまかりとっている証左だろう。
 大正天皇と朝鮮語の出会いは、皇太子(嘉仁親王)時代の1907年(明治40年)の朝鮮行啓に遡る。当時の朝鮮の国号は大韓帝国で、既に日本の保護国となっていた。この訪朝で李 垠(り・ぎん、イ・ウン)王子と親しくなった嘉仁親王は、これをきっかけに朝鮮語に興味をもち、習得に励げまれたようだ。 
 その後、垠王子は日本に留学をするが、親王は王子を実の弟のようにかわいがられ、たびたび会っては朝鮮語で会話をされるのを楽しみにしていたという。朝鮮語の学習は天皇に即位されてからも続いた。侍従の黒田長敬は晩年の天皇から突然妙な言葉で話しかけられ一瞬困惑したと記している。妙な言葉とはむろん朝鮮語である。天皇おん自ら学ばれる言語を地上から「抹殺」しようなどと企てる輩がいたとしたら、それは総理大臣であろうと朝鮮総督(統監)であろうと、一級の不忠者と断罪されるべきだろう。

左から李完用、嘉仁親王(大正天皇)、東郷平八郎(?)、李垠王子。

 朝鮮語を抹殺するどころか、日韓併合に合わせるように国内では、にわかに朝鮮語学習ブームまで起こっているのだ。朝日新聞1910年(明治43年)8月10日の「日韓併合と朝鮮語」と題した丸善の広告にその一端を見ることができる。ここでは『独学韓語大成』と『韓語通』という二冊の朝鮮語学習の本が紹介されている。どちらも当時のロングセラーである。
『独学韓語大成』の著者・伊藤伊吉は静岡県出身の元教師で、満州浪人ならぬ樺太・朝鮮浪人を地でいった男。日露戦争前後をロシア、朝鮮で過ごし、朝鮮では行商人からスタートして商社を経営、のちに東洋拓殖会社に乞われて入社している。まさしく、「独学」の名に恥じぬ、市井の言語学者だ。他に『独学日露対話捷径』などの著書がある。
一方の『韓語通』の前間恭作は、朝鮮とも歴史的に縁の深い長崎県対馬の出身。1894年(明治27年)、朝鮮領事館書記生をふりだしに朝鮮総督府通訳官を務め、朝鮮古籍の膨大な蒐集で知られている。
 ちなみに、日本で最初の朝鮮語の教育機関は、1925年(大正14年)設立の天理外国語学校朝鮮語部(現在の天理大学国際学部・韓国朝鮮専攻科)である。

『日韓併合と朝鮮語』。「朝鮮に行け、朝鮮に行け、朝鮮は最早外国に非ざる也。未拓の美田。未知の天産。到る處に埋もれたる国宝は日本人諸君の来るを待てり」。いい気なものである。(「東京朝日新聞」1910年8月30日)

英語からラブレター指南まで多彩な入門書

 ということで、本項のテーマは学習である。とはいっても、決して堅苦しいものではない。本屋の棚に並んでいる『〇〇入門』本やら怪しげな通信教育の類を思い出してもらいたい。誰もが、一度はこの手の「学習」に手を出したことだろう。そして、多くが3日坊主、せいぜいが1か月坊主で“中退”を決め込んだのではないか。そもそも、この手の「学習」ビジネス自体、世に存在する無数の3日坊主クンによって成り立っているといって過言ではないだろう。
「韓国人はすぐに結果を欲しがる。短気で飽きっぽい」。これは知り合いの韓国人がいっていたことなので、おそらくは間違いない。つまり、韓国人は典型的な3日坊主、「学習」ビジネスの理想的なお客さんといえるのではないか。
 併合時代の朝鮮にもちょっとした「学習」ブームがあったようだ。
ぱっと目を引いたのは「井上英語通信学校」の英語学習の広告。「立身出世を希望する諸君」という単純明快かつ力強いコピーが心地よい。当時、英語は「立身出世」のために習うものだったようだ。
広告中央の、黒板に英語を書く女性の左下に蓄音機を前にした坊主頭の男の子の囲み写真があるのが見えるだろうか。この蓄音機が「学習」のカギである。受講を申し込むとレコードが送られてきて、受講者はレコードに吹き込まれたネイティブ・スピーカーの英語をリピートしているうちに英語が上達するという仕組みらしい。今でいうところのCD付き教則本だが、この時代(1938年)に既にあったというのはちょっと驚き。

「五輪大会まであと二年」とあるのは、1940年に予定されていた幻の東京オリンピックのこと。支那事変長期化の影響で日本が返上することになった。(「朝鮮日報」1938年7月13日)


「出世」はやはりキーワードのようである。「出世の基(もと)」を謳ったのは『演説修養』。要するに、「人を惹きつける演説」入門である。写真の、「いかにも」なオジサンがいい味を出しているが、どう見ても、大言壮語、講釈師見てきたようなナントヤラな雰囲気である。ちなみに雑誌『雄辯』は大日本雄弁会(現・講談社)が発行していた雑誌で、主に雄弁家の演説の速記を掲載していた。

「20世紀、朝鮮に世界隆盛の色彩を表わさん者は鬼も泣く演説を指南するこの本をただただ読まれよ!」。もはや、広告自体が演説だ。(「朝鮮日報」1923年10月5日)

「歓迎!歓迎!注文殺到!」という煽り文句は、その名も『愛の炎』というラブレター文集である。いわゆる「手紙の書き方」といった類の実用書はよくあるが、本書はラブレターに特化したもの。実際した著名人の、あるいは小説などに登場する架空の恋文の文面から、相手のハートをがっちり掴む恋文の書き方を学習しようというもの。面白いのは、男女関係のあらゆる局面に対応している点だ。求愛や恋の告白、恋人同士の睦言に混じって、相手から別れを切り出されたときの返信や、自殺をほのめかす手紙(脅しやんけ)、「毒を飲んだあと」にしたためる文、なんていうのもある。
 実際、この本を参考に、ある人妻に恋文を送った男が、相手の夫に訴えられ留置場に入ったという例があるそうで、その意味では効果は保証済みといったところだろうか。

『愛の炎』。とにかくコピーがムダに熱い。「百合より美しく、夕日より赤く、熱い恋人たちの愛を紡ぐ」「現代若手文士が青春の情熱と血を吐き出し書いた『愛の炎』!」(「朝鮮日報」1923年10月 16日)

 最後に紹介するのは「東京清心研究会京城支部」の『催眠術講座』である。
催眠術を身につけるだけで、家族関係が円満になって健康・長寿が保証され、無痛分娩も可能となり、また人心透察(人の心を見抜く)も自在」とある。話半分に読むのがよろしいかと思うが、これはこれで何となく信じたくなってしまうのは、すでに広告の催眠効果に惑わされている証拠?

『催眠術講座』。催眠術はフロイト心理学とカップリングで日本に紹介され、明治末から大正にかけて大ブームを起こす。潜在意識への着目はシュール・リアリズムなどの前衛芸術運動にもつながった。(「朝鮮日報」1920年6月10日)

(おまけ)

『撞球指南』。「撞球」とはビリヤードのこと。著者の玉乃一熊は日本のビリヤード界創成期の第一人者。父の玉乃世履は「明治の大岡」と呼ばれた名裁判官、息子の由理は木炭自動車の開発者である。(「毎日新報」1916年2月25日)

(初出)


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