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目からビーム!24 英霊の神降ろしとしての空手チョップ~討入りから真珠湾、12月はやはり忙しい

力道山、怒りの空手チョップ。裁くレフェリーは沖識名

力道山時代の名レフェリーに沖識名がいる。何が「名」なのか。公明正大なジャッジを身上にしているという意味ではない。観客のヒート(興奮)を煽る名人なのである。
特に彼の采配の活きるのはタッグマッチだ。ガイジン組に捕まり二人がかりの攻撃で息も絶え絶えの吉村道明、何度か力道山にタッチを試みるが、なぜか沖レフェリーにはその瞬間が見えていない。「レフェリー、どこに目をつけてんだ!」。客の罵声を浴びるのも彼の大切な仕事である。そして観客の怒号がピークに達したところで、ようやく日本組のタッチが成立、怒りの形相でリングインした空手チョップが敵の胸板に炸裂すると、じらしにじらされた観客の歓声は一気に弾け天を衝くという塩梅だ。
もはや古典的ともいえる、悪役(ヒール)に肩入れするレフェリーというスタイルだが、当時の米国のマット界にも類はないところを見ると、おそらくプロレスを輸入するにあたって、力道山と沖識名が日本向けに創造、アレンジしたものだろう。「刃傷松の廊下」を好む日本人のメンタリティーを計算した心憎い演出である。
沖と力道山によるこのリング上の“儀式”は、日米開戦の追体験の意味ももっていた。英霊の神降ろしである。反則の限りを尽くすガイジンに食らわす怒りの空手チョップは、すなわち真珠湾攻撃なのだ。さしずめ沖の役回りは、日本に対して徹底的に冷淡だった当時の国際連盟をはじめとする国際社会といえるだろう。この儀式に参列した観客たちは世代的にみな大東亜戦争の大義を知っていた。だが、敗戦後、それを口にすることは許されない空気が長らくあった。だからこそ、力道山の神儀に民族的高揚を掻き立てられたのである。いや、この場合、本当の意味での神官はレフェリー・沖識名であろう。
ちなみに、沖識名は本名・識名盛夫。その名からわかる通り沖縄出身、ハワイ移民の日系レスラーで、あの鉄人ルー・テーズに柔道をコーチしたこともある実力者だ。
もう早いもので師走である。明日12月8日は真珠湾攻撃77年目の記念日だ。その一週間後の12月15日は、御存じ赤穂浪士討ち入りの日、そして、くしくも力道山、沖識名両人の命日なのであった。

(初出)八重山日報

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(追記)
12月8日は日米開戦の日だが、そういえば、力道山が赤坂のナイトクラブで刺されたのも昭和38年のこの日だった。多少コジツケにしても奇妙な符合だと思う。
コラムにも記したとおり、力道山は日本人のナショナリズムを誰よりも理解し、プロレスというスポーツエンターティメントに昇華した。その力道山が現在の北朝鮮の出身であることは現在では公然の秘密ですらない。力道山を語るとき、日本と朝鮮の二つのアイデンティティの葛藤について触れる人は多い。正確にいえば、日本と南・北朝鮮、三つのアイデンティティを彼は抱えていた。
没年である昭和38年の1月、力道山は韓国側の招きで渡韓。地元の新聞は「民族の英雄・20年ぶりの祖国訪問」と大きく報道した。この「祖国」訪問の際、板門店にを訪れ、38度線の向こうに向かって兄の名を絶叫したといいう。また、大野伴睦や児玉誉士夫と近しい関係にあった力道山は反共主義者でもあったが、帰国後、北の指導者である金日成にベンツを贈っている。朝鮮戦争休戦からまだ10年。日本国内でも民団(南)と総連(北)が、在日社会の主導権を巡って睨み合いを続けていた時代である。

力道山のソウル入りを伝える新聞。
力道山が作らせた日本ヘビー級のチャンピオンベルト。日の丸に菊の御紋がデザインされている。
国家贈物館に展示された力道山寄贈のベンツ。

昭和26年秋、力士を廃業した力道山は銀座のナイトクラブで、来日中のハロルド坂田とつまらぬことでケンカとなり、これが縁で坂田からプロレス入りを薦めらたというのは有名な話。プロレスラー力道山の誕生も最期もそのきっかけはナイトクラブだったか。

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