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楢木守さんの新著『題名なき鎮魂歌(レクイエム)』、但馬が解説書かせていただきました。

【解説】戦争と人間

但馬オサム

 医学の進歩は目ざましい。ほんのふた昔前には、命がけの大手術が必要だった病気も今では内科治療で完治するケースも少なくない。この進歩は実に加速度的で、おそらく人類は、天敵であるガンさえ来世紀を待たずして克服してしまうのではないか。
 しかし、いくら医学が進んだからといって、今日の目でもって、かつて命がけの手術を戦った患者を、医師を、嗤うことは許されるものではない。現在われわれが享受する最先端医療も、失敗成功を問わず過去の無数の術例の積み重ねの結果にほかならないからだ。
 私は、先の大東亜戦争こそ、アジア太平洋地域にほどこされた命がけの大手術だったと思っている。なにぶん、人類もこんな手術を経験するのは初めてだった。病巣を探るあまり、切らなくていい部分を切ったこともあったかもしれない。大量出血やチアノーゼもあっただろう。しかし、どうにか、それらを乗り越え、結果として世界地図は大きく描き替えられた。西欧列強は、植民地のほとんどを失い、アジアから手を引くことになったのだ。手術は成功したのである。
 これがマクロから見た、私の大東亜戦争観だ。戦争を単純な善悪で語ろうとすると、こういった視点はぼやけてしまう。
一方、ミクロに目を転じれば、あの時代を生きた日本人の数だけ、戦争観がある。当然、置かれた立場、環境、体験によって、その戦争風景は大きく異なるのだ。たとえば、前線で泥水を啜り草を食みながら進む兵士と、参謀本部で作戦を立案する立場では、同じ戦争を戦いながら、見える風景は違う。あるいは、陸軍か海軍か、北支か南方か、によってもそれは大きく分かれる。むろん、兵ばかりではなく、夫や父、兄、恋人の武運長久を祈る名もない庶民にも、個々の戦争体験がある。
本書の著者はこう記している。
《史実は事実であり客観的な第三者の理解(評価)と当事者の理解が一致した時、歴史上の出来事は〈解釈としての史実〉たりえる。
では第三者とは?…残念ながら存在しない。どの人間もその各人の知見を持って事象に向き合う…言ってみれば己の主観でしか物事を見らないわけだから、感情、感性、感覚を超越した客観性は存在しないという事である。》
 歴史というものに、完全な第三者たる立会人はいないのである。だが、われわれは過去、こと、先の大戦を語るとき、まるで歴史の立会人であるかのようなふるまいをしがちだ。あたかも教科書を読まされているかのように。
 たとえば、昭和18年10月の雨の神宮外苑の学徒出陣の壮行会。NHKなどのドキュメント番組などで、私が知るのは、悲壮なBGMを被せたモノクロの映像である。あのビジュアル・インパクトは絶大だが、実際に元学徒兵の方々に話を聞くと、「女学生がキャーキャーいっていて、ちょっとうれしかった」「割り当てに足りないんで、理系の学生を混ぜた。みんな面白がっていたよ」などとお気楽な答えが返ってきて拍子抜けした憶えがある。中には、「雨だし、かったるそうなので、サボって友達といっしょに日劇にレビューを観にいったな。踊り子の脚も見納めだと思ってね」という強者もいた。
 本書にその名が出てくる、人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」の元搭乗員にもお話を伺うことができた。誰一人、自分を軍国主義の犠牲者だという人はいなかった。
 むろん、それらもごく一部の声なのかもしれないが、彼ら前線の将兵を、犠牲者・可哀そうな人たちという目で見るのは、不遜極まりないことであると知るに充分だった。すべての結果を知った上で、過去を語るのは、われわれ戦後生まれは彼らよりも賢いというのにも等しいからだ。ピタゴラスの定理は中学校の数学で習い誰でも知っているが、だからといって、現代の中学生がピタゴラスよりも賢いわけではあるまい。
 戦争は、生死を問わず多くの理不尽な別れを人々に強いる。同時に、戦争によって結ばれた縁(えにし)、戦争なくしては、おそらくはなかったであろう出会いも確かにある。本書でも、いくつかのそういった出会いが描かれている。ひとつ挙げるならば、東京大空襲下での渡辺ひろ子と竹田芳江・基子母子との出会いである。この出会いがなければ、ひろ子が田野中正雄と結ばれることもなかった。これもまた戦争のリアルであろう。
 本書は、歴史を俯瞰して見た戦争を縦軸に、時代を賢明に生きたわれわれ祖父母たちの人間群像を横軸に、ビビットな筆致で綴りあげた奇跡の小品である。読み進むにつれて、焼け焦げたジェラルミンの機体の臭いも、復員兵の軍服にまつわりついた汗の臭いも、焦土の中から顔を出した新芽の萌える匂いもリアルに鼻をついてくる。私は、ここまで嗅覚に訴える文学というのも私は知らない。それだけでも貴重な体験であった。
 泥沼にはまったウクライナ戦争。欧州では移民による暴動があとを絶たない。あるいは、BMやLGBT、差別をなくせという運動が新たな差別と分断を生んでいる。テロの脅威も依然として消えてはいない。今、世界中が殺伐とした空気に包まれている。もしかしたら、歴史の神は、人類に新たな世界地図の描き替えを求めているのだろうか。
 できれば、それは大手術ではなく、人間の叡知という内科治療でなしとげてほしいが、それは望み薄なのかもしれない。戦後生まれのわれわれが賢いなんて、やはりおこがましい限りだ。


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