【論評】朱金色の世紀末──〈ジョジョ〉コンテンツの文脈再定義からみる上遠野浩平『クレイジー・Dの悪霊的失恋』(「解釈」篇)


・はじめに

 ある作品があり、そのコンテンツを拡張するものとしてスピンオフが描かれるとき、それが「解釈」の色彩を帯びない、ということはありえないように思う。スピンオフは、原作者によって書かれない場合例外なくこの「解釈」の重力圏に包摂され、作者(原作者にあらず)はその中で独自の物語を語るしかない、というような。それは評論と創作のハイブリッドであり、その点においてパーソナルな質感を帯びる。スピンオフにおいて「作者」という「主体」は、原作以上に重要なものになるように思う。
 上遠野浩平によるスピンオフ『恥知らずのパープルヘイズ』は、原作を巧みに参照しつつも、そこに彼の作家性を横溢させ、彼自身のテーマ性を原作からこぼれ落ちたキャラクターとしてのパンナコッタ・フーゴに仮託していた。
 そしてこの『クレイジー・Dの悪霊的失恋』も同じ構造の中にある。これは創作であると同時に解釈でもある。しかしそれは『恥パ』のそれとは異なっていた。その作品のテーマ性は、舞台となる「4部」それ自体の解釈に留まらないからだ。これはジョジョというコンテンツそのものを拡張する。壮大でありながら、ジョジョそれ自体への深い敬愛の念がうかがえる「解釈」を物語に導入することによって。この作品は一つのコンテンツを超越する。この作品がもたらすのは一つの文脈であり、そしてこう言って良ければ総括でもあるのだ。
 総括。ジョジョが現在も連載中であることを鑑みれば、これはいささか不適切な表現といえるかもしれない。しかしジョジョという特異なコンテンツにおいては適切であると、僕は考える。本稿ではそのことについて明らかにしつつ、この『悪霊的失恋』で上遠野浩平が行ったことについて評論・考察していく。
 なお本稿では、先に述べた「解釈」の方に焦点を当てて論を組み立てていくが、「創作」についても別途投稿したいと考えていることは、ここに付しておきたい。

(また、本稿は二部構成となっております。それぞれは同じ作品、同じ視点を取り扱っていながら独立した論理によって貫かれているため注意です。随時更新していきます)

第一部「岩・糸・本からみる運命観と文脈」

・商品としてのジョジョの展開について

 まずはじめに、前提として『ジョジョ』の区切りについて確認しておきたい。ジョジョは長期にわたるシリーズであるが、それは幾度かの終わりを──「区切り」を迎えているシリーズでもある。その区切りはそれぞれに独立した意味を持つが、ひとまず、それらすべてを記述してみたいと思う。
 まず最初は、3部の終わりのことだ。1部から一貫して巨悪であり続け、常にジョースター一族と対置されてきたDIOが死亡するのがここであり、『悪霊的失恋』のあとがきにもあるように、当時の読者は明快に「終わり」を意識したはずである。2部は「柱の男たち」との戦いであり、DIOの存在は伝聞で触れられるのみであったが、それでも、DIOをDIOたらしめていた石仮面の宿業の、その重力圏の内側で物語は繰り広げられていた。それが終わったのがこの3部であり、そして物語は、本作の舞台でもある杜王町に移り、そして更に別の場所へと飛んでいく。
 次は5部の終わりになる。こちらは物語とは直接関係がないのだが、ここでジョジョは、一度ナンバリングをリセットしている。単行本63巻で5部が完結すると、6部はそのまま、1巻から「ストーン・オーシャン」として開始することになる。

「ところが第6部の時点になって、目新しさを出すためタイトルを「ストーン・オーシャン」で新連載しようと編集部から言って来た。つまり『ジョジョの奇妙な冒険』というタイトルではなくなる事に。
 作者的には『それはヤだ』と思った。自分のイメージは『ジョジョの奇妙な冒険6・ストーン・オーシャン』なのだ。で、話し合いの結果『ストーン・オーシャン』の文字を大きくして……という事で、落ち着いた」

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険1』(集英社文庫、2002)「文庫化にあたって」より

 文庫版のあとがきによれば、これは新規ファンを獲得するために編集部が行った商業的戦略であり、物語上の意味は薄い。だが次の区切りは、物語において大きな意味を持っていた。
 それが「7部」である。七部からジョジョは青年誌に移行し、それに伴ってテーマ性も、そして世界観も大きな変化を遂げた。この変化はこれまでのものとは決定的に異なる。なにせ、世界そのものが変わってしまったからだ。この世界の変化により、これまでのキャラクターは一切登場することがかなわなくなり、その意匠を借りたキャラクターたちがそれに代わって物語を駆動するようになった。
 このようにして、ジョジョは幾度となく終わり続け、その度に始まり続けてきたコンテンツなのである。そしてその構造は、決して一貫したものではなかった。
 ジョジョは一見精緻に作られているように見えるが、その実、かなりドラスティックなものなのだ。それぞれの部は独立作として見ることさえできるほど毛色が違うこともあり、ファンによって熱意を傾けている領域が異なる、ということもしばしばだ。
 それゆえ、一般に、ジョジョ全体を貫いていると理解されている「運命」というタームも、実際はかなり限定的な範囲でのみ駆動するものにすぎなかった。それは一部にその萌芽が見られた後は(ウィル・A・ツェペリと「予言」)、血統、というかたちでジョースターとDIOの対立軸の中で後景化していた。再びそれが登場するのは、五部においてなのだ。そして6部においては、運命を明瞭にテーマにしていた5部のエピローグを継承し、全体を通して、このタームが支配的になる。そしてその後、7部にて、タームは完全に消滅した。
 『悪霊的失恋』が描き出したのはまさにそこだった。血統としての運命から、絶対者としての運命への移行。その関係性を見つめ直し、再構築すること。その認識こそが、この『悪霊的失恋』を規定するまなざしだ。

・世紀末をめぐる論議と運命をめぐる競合

 上遠野浩平はこの作品の中で、そうしたタームをめぐる複雑なジョジョの展開を、一つの文脈でまとめあげようとする。
 具体的には、1部から4部に内在していた「血統としての運命」と、それ以外の「荒木飛呂彦の身体感覚・作家性としての運命」の所在と性質を明確にすることで、来る5部・6部の「絶対者としての運命」に、このタームに規定されたかたちの1部ー4部を接続しようとしたのだ。
 ここまで読んできた方は、4部と5部が区切られていることに疑問を抱かれるかもしれない。先に触れた区分の中で、それらは区切られていなかった。
 その疑問は全く当然のことだ。なぜなら、それを区切る認識は、この作品に独自のものなのだ。
 「世紀末」。それこそが、上遠野浩平がジョジョを一つの「文脈」として解釈し、創作するにあたって持ち出してきたタームだ。これによって彼は、4部と5部の間に境界線を引き、1部ー4部と5部ー6部という対立軸を用意した。だが、それはなぜか。
 その答えの一つとして、作中の時代が挙げられるだろう。四部の舞台となるのは1999年。世紀末そのものだ。そして五部は2001年が舞台となり、続く六部は2011年が舞台となる。四部までの物語は、21世紀以前のものであった(一部は1890年代となる)。そしてそこに境界線を引くことは、更に、先に触れた運命をめぐる変遷の過程を明確にすることにも繋がる。
 4部までの運命と、5部までの運命は、その本質において大きく異なる。そのことを、恐らく上遠野浩平は重要なものだと考えた。そして彼は、トト神という、3部において、血統から独立した「運命」を紡ぎ出していた存在を回収し、物語に配置することで、それらの分立した運命の違いを明確にし、接続させようとしたのではないか。
 5部において、運命は「岩」──スタンド:ローリング・ストーン(ズ)──として表象される。そして岩が無機質で硬質であるのと同様に、それが代替する運命もまた、硬質で、こう言って良ければ過激なものだった。

スタンド名──『ローリング・ストーン(ズ)』
本体──スコリッピ
能力──「死ぬ運命」にある者が死んだ時の姿になる『石』。
そしてその者を苦しむことなく安楽死させるためにころがって追跡してくる。
本体「スコリッピ」の意思とは無関係に「運命」というどうするこどできないパワーがこのスタンドのエネルギー。自動操縦タイプのスタンドといえる。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』63巻(5部・黄金の風)より。エピローグにおいて、5部の物語全体がこのスタンドの表象する運命によって貫かれていたことが明らかになる。

運命は絶えず人々を打ちのめし、その精神に受難を与えるのだ。だがこれは、上遠野浩平の運命観とは絶妙に異なる。
 彼は運命を「糸」として表現した。彼にとって運命とは、あらゆる宿業、あらゆる偶然が糸のように絡まり合う、競合関係のようなものだった。藤原聡紳による〈上遠野浩平論〉は、かつてこれを「決定論的な運命」と名付けた。それはどこか、4部までの運命のありかたにも似ているように思う。そのあいまいさ、その複雑さ、そしてその存在感の、酸素のような希薄さは。
 そしてその「糸」を特定の状況のためにならし、個人を導くために配置する道具として、彼はかつて「手帳」を登場させたことがある。
 そう『ヴァルプルギスの後悔』の「FIRE4」だ。運命視の能力を継承した存在であるオキシジェンは、自身の後継者として見初めた末真和子を導くべく、彼女の下に、運命を記した手帳を送りつけた。これは固形でありながら糸の原理に貫かれた、上遠野浩平の運命観(決定論的な運命)と荒木飛呂彦の運命観(絶対者としての運命)の中間に位置する実存なのだ。
 それを用いることで、上遠野浩平は四部までの運命を、自身のタームでもある決定論的な運命として表現しつつ、世紀末の向こう側にある、新世紀の運命(絶対者としての運命)と接続させようとしたのではないか。トト神はいくつもの時代を渡り歩き、運命を記録してきた、と本編にはある。一方で、その「意思」は、DIOに対抗すべく文脈を選択した、とも。そうした恣意性によって選択され加工された「運命」の記述とは、つまり、ジョジョの物語そのものだといえるのではないか。DIOの誕生、成長、そして三部における決着と、その残滓との戦い。それらはすべて、運命という志向性によって規定されていた、と上遠野浩平はいう。

「(前略)もしかすると──私はつい考えてしまいます──石仮面の邪悪は、その男に利用されるためにこそ存在していたのではないか、と。石仮面を生み出した古代文明もその滅亡も、幾世紀を経てその男に石仮面を渡すための、定められた必然の運命ではなかったのか、と──」

『クレイジー・Dの悪霊的失恋』「Dの七」、ウィル・A・ツェペリの手紙より。この手紙を書いた後、ツェペリは「予言」の通りに敵に敗北し、ジョナサン・ジョースターに力と意志を託す事になる。

 七章冒頭にて、彼は石仮面とDIOの宿命性を確認しつつ、一部と二部を「運命」の文脈で接続する。それも、絶対者としての運命ではなく、決定論的な運命として。DIOは1部において、偶然によって石仮面の権能を発見し、追い込まれたことでそれを利用したのだ。そこには、なんてことのない選択が致命的な結末を生み出す、という、決定論的な運命の在り方がある。
 そして2部もまた、究極生命体カーズという存在への信仰が引き継がれている、という要素によってその後の部と接続させている。

 運命とは、記述された時には、既に過去でしかない。その記述が、ひとりひとりの立場に影響を及ぼすことはない。運命が存在すると知ってもなお、彼らは彼らの道を切り拓いていくだけなのだ。
 無数の可能性が、運命が、絡まり合い成立した、21世紀までのジョジョの物語。それは原作において、ドラスティックなかたちで新世紀へと繋がっていくが、上遠野浩平はそこに文脈を見出し、その文脈の間隙を、物語で充足させようとする。それはスピンオフなるものの、純粋な営みそのものだ。
 スピンオフとしての、ある文脈の創出のための物語。そうした物語を抱え込んだ作品として、これは在る。


第二部「継承、あるいは決着について」(準備中)

(準備中)

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