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【各話感想】呪術廻戦 懐玉・玉折/渋谷事変(第2期)

・はじめに

 随時更新していく(予定)の『呪術』2期の各話感想リスト。オープニング、エンディングの感想はたぶん一話のところにあります。

・「第一話」

 アバンタイトル。夏油のモノローグから開始する。『懐玉』編自体、挿話的に展開される、一定の長さの話であるため、テーマを明示しておくこの手法はかなり有効な気がする。ファンの反応とか視点はかなり五条寄りであることが多いが(というか、漫画的には五条視点の回想だしね)、話をまとめる上では夏油視点の方がすんなりいくというのはあるはず。
 それはそうと、監督が変わっているわりに、一期にみられたような、いわゆる実写的な演出が目立つ。家庭用フィルム、風景からのタイトルカット、回廊。漫画的なギャグを取り入れつつも無理にテンションを上げすぎない演出力には脱帽する。今期では漫画的なギャグと実写的な演出がかなり自然に融合していくのではないか。自然。そういえば今話はやけに自然に作られていたように思う。無理な演出やシークエンス、間延びしたカットがあまりなく、大人気作品の二期としては理想系じゃなかろうか。

 オープニング。絶対これサビから作ったろ……という感じ。メロとしては、サビの完成度が高く、それ以外はいつも通りな感じがあるような。しかし全体としては相当にまとまっているし、間違いなく売れるだろうと思う。売れて欲しい。書店やら何やらで飽きるほど聴くことになることを考えるとアレだが。
 同じ、アニメのためのタイアップであるところの《スカー》に比べるとだいぶ爽やかに仕上がっている一方で、歌詞における「青空」の使い方はいつも通りの手管。好きです。BLEACHのために書き下ろした《スカー》や《タナトフォビア》、あとは《波に名前をつけること、僕らの呼吸に終わりがあること》なんかもそうだったろうか(あれは「青春」だったっけ)。「どうしようもないもの」の象徴としての青空。この屈折感は呪術っぽさでもあり、両方のファンとしてはかなりたまらないものがありますね。あとこういうモチーフは上遠野浩平が『青く蓋をされたような空の下で』で書いていたものでもあった(『恥パ』のあとがき。未読の方は是非)。
 それはそうと、映像のわちゃわちゃ感、きっちり作っていた印象のあった一期に対して新機軸で良いと思います。山下清吾さんだったかは確認できず。後で見返すか……

 Bパート。大胆に原作を再構成している。アニメや漫画にどうしようもなく付きまとうコストの問題をものともせず、最高のレイアウト、最高のカットを用いることを厭わない。バスケットボールでナメをやる部分とかね。あとAパートでも思ったけれど、原作に多い三頭身デザインがギャグとして多用されていたのが印象的だった。『ぼっち・ざ・ろっく』の影響じゃないかと少し思ったが未聴なので確定的なことはいえない。
 あと余談だけど、デジモンのたとえはかなり全体のなかで有効に機能していたということに改めて気付かされる。映像でみると夏油が言ってることがかなり入り組んでいて理解に時間がかかるのがわかる。

 エンディング。最高。ただただ最高。サビへの移行がシームレスだし、映像の雰囲気にも合ってると思う、とは別のところで書いた通り。崎山楽曲の妙味でもあった曲調と歌詞の乖離がなくなってる代わりに、その二つの調和がしっかり取れてるというのは、アニメの方で聴いたときの感想だったけれど、フルで聴いてみるとかなり挑戦的に仕上げている印象になる。歌詞の端々に「崎山蒼志」が表れていて、『呪術』本編の表現を借りさせてもらえれば「成った」という感じだろうか。彼の楽曲の中で一番近いのは《嘘じゃない》を除けば《タイムケース》かも。《タイムケース》自体も《find fuse in youth》(曲の方)とか《幽けき》とかの正統進化だったように思うので、この仕上がりに漂う「成長」の気配には末恐ろしいものがある。いや、もはや恐ろしい、という表現は適切じゃない。彼はどんどん落ち着きを獲得していっているように思うからだ。

 次回予告。ノスタルジー。ひたすらに。じゅじゅさんぽも良かったけど、個人的にはこっちの方が好きです。単行本で『懐玉』編にあたる部分のカバー裏のノリが延長されている感じがある。『懐玉』自体、作者のノスタルジーという感じはところどころにあったが、まさか次回予告にもそれを混ぜ込んでくるとは……最終回を迎えた時、果たして作者の同世代(アラサー?)は生き残れるのだろうか。他人事なので傍観しかできないのが歯がゆい。

・「第二話」

 アバンタイトル。ちょっと『チェンソーマン』(アニメ版)を思い出すなど。生活感のあるシークエンス、そんなに嫌いじゃないけど、アニメでは積極的に見たいものでもないかもしれない。
 しかしオープニングからそうだったけど、今期はかなり彩度が高めに作られている。それも「青」の表現に固執するかたちで。通常の呪力は青黒い。これはたしか連載初期に、扉絵で呪力が青く描かれていたのに端を発する表現だったと記憶しているけれど、今話の呪力表現はそれがかなり明瞭に描かれていたように思う。昼下がり、それも夏の空気感を表現することに成功している。これは基本的に絵柄や表現手法の変わることのない漫画では表現しづらい要素だ。だからこそ、そうした、アニメに特有の表現を最大限活用している演出は、読者としてはかなり嬉しい。
 女学院の内装にもそれは表れていたのだけど、今話で一番触れるべきなのは間違いなくガラスの表現だと思う。押井作品の中では不断にインターフェースとして描かれるガラスは、ここでは光を乱反射する、ある種の装飾として見出されている。光に差異を設け、拡散させ、増幅する装置としてそれは振る舞う。あるいは光の粒子として。
 しかしここまで「青」と「光」が強調されていると、後半、「赫」登場以後の演出が気になるところ。すべての演出が反転する可能性は全然あると思います。

・「第四話」

 先週は色々あってサボってしまったので、先に4話の方を。
 話については別のところでまとめたいのと、「原作」の面白さ、奥深さに重心が偏りそうなので、ここでは戦闘シーンを中心に感想をまとめていきたいと思う。
 前にも書いた気がするけど、原作の方が作画コストとか納期の面で断念した(であろう)高級な演出が惜しげもなく選び取られていてひたすらに眼福。江西宮の緻密さはそのままに、和風建築的な面白さを十分に発揮されていていい。襖を挟んで会話→破壊して戦闘に移行、という流れは王道であると同時に、どことなく『呪術0』を思わせるようでもある。その後の戦闘もそうで、物量戦であることが自覚的に描き出されていく様は原作のロジカルさとも符号しているように思う。原作は主に殺陣のロジカルさが突き抜けていて、再読性が非常に高いのだけど、ここでは呪術戦においてその再読性が生まれている。
 Aパートの王道さに対して、Bパートはかなり挑戦的・実験的な演出でやっていたように感じる。重力を無視して浮遊する悟。金屏風を思わせる黄昏の色彩(「ヤコブの梯子」の採用から見るにキリストモチーフでもあるような気はする)。それは「止め」の絵の強度によって成り立っている側面が強く、戦闘シーンというよりそれはむしろある種のイメージ映像というか、点景というか、そうした芸術的な(ケレン味のある「エンタメな」演出の対置としての)表現手法が選択されていたように思う。浮遊する悟はどことなくモノリスを思わせ、ここでは意図的に「現実味」が失われている。現実に根拠をもつものとしてのアニメが、その輪郭がゆるやかに解け、別のものへと変じていくような。
 とはいえBパートにおける戦闘面での解釈もかなり誠実であり、「赫」が甚爾に直撃していたかに見えた原作に対して描写を付け足し、逆鉾に命中させていたのはさりげないが、かなり上手い演出だと思う。徐々に加速していく万里の鎖も同様。遮蔽物の少ない空間で瓦礫とかその他柱が、戦局を分けるほど重要なものとして扱われるのは原作特有の演出技法で、ここでもそれが持ち込まれていたのはファンとしてやっぱり嬉しい(しかしこのままだと毎話この視点から話を展開してしまいそうな気がする。それくらい原作への誠実さがあるアニメだ)。

・「第五話」

 懐玉・玉折編最終回。今話が「玉折」であり、冒頭のプロローグを回収して視点は傑へと移る。
 Aパートから、かなり実験的、というか実写的な構図が目立つ。ナメの構図が多く、インサートの多さの割にキャラを主体にしたものが少ない。たぶん覚醒後の悟の顔を映さないためのカット割りなのだろう、とこの時点では推察するしかなかった。実験的な構図はこれまでにもあったわけで、とりたてて問題にするべきではない、と。
 しかし本格的に傑へ視点が移り、九十九と会話を始めた辺りからいよいよ毛色が変わってきた。Aパート序盤の演出も含め、これはこの話全体を、一つのイデオロギーが下支えしているのかれない。そのように考えるようになったのだ。
 イデオロギー。それは映像を規定し、あるべき方向に導く。思想、と言い換えてもいいだろう。監督にとっての空間と時間、それを演出する手管。ここにはそれがある。
 この話の時間は引き延ばされている。無論、それは間延びを意味しない。決してつまらない映像ではないし、眠くなることもない。だがそこからは、漫画的な時間の認識──「止め」の絵の力が丹念に排除されている。なぜか。
 それは「主観的な時間」を演出しようとしたためだ、とここでは断言してしまいたい。
 傑にとっての絶望。閉じた世界の中で、呪術高専という楽園の中で無神経に生きられなくなってしまったことへの絶望。これは、それを表現するために選び取られた演出手法だったのではないか。「玉折」におけるセリフはその後の傑の人生を決定づけるものに満ち溢れているが、それらはごくさりげないものとして流れていく。映像がそうであるように。

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