今年(2022年)にやったゲーム【後編】

・MGS1(インテグラル)


<まえがき>
 ステルスゲームの金字塔(以下略)。
 諸々の事情によりPSVITAのアーカイブスでやったのですが、完全に早とちりでインテグラル(セリフが全部英語になってるやつ)をやってしまい後悔……やっぱり最初はオリジナルでやりたかったなぁと。

<あらすじ>
 アラスカに浮かぶ孤島、シャドーモセス。合同軍事訓練の真っ只中に、そこは特殊部隊FOXHOUNDによって占拠されてしまった。シャドーモセス島では、アメリカ陸軍が秘密裏に新型核搭載型二足歩行戦車メタルギアREXを開発しており、事態を重く見たアメリカ国防総省はかつてFOXHOUNDの総司令官を務めたロイ・キャンベルと──単独で武装要塞国家アウターヘブン、およびその後継たるザンジバーランドを陥落させた伝説の兵士、ソリッド・スネークを招集した。
 スネークに課せられた任務はテロリストの武装解除と人質の救出。彼は複数の協力員のバックアップを受け、シャドーモセスの深部へと進んでいく。FOXHOUNDに煽動された兵士の目を掻い潜り、ダクトを抜け、人質の元へと。
 だがそうしてたどり着いた人質、DARPA局長は、彼の前で不審死を遂げる。それに戸惑う暇もなく、状況は転がり続けるが、スネークの胸から疑念が拭い去られることはなかった。
 かつて、彼が陥落させたザンジバーランドで死んだはずの敵、コードネーム:グレイ・フォックスとの再会。自分に瓜二つの敵、リキッド・スネークの謎。協力員ナオミの気掛かりな言葉。複数の思惑が交錯する中で、スネークは自らの運命と対峙する。

<感想>
 ステルスゲームとしての魅力はもちろんそうですが、なんといってもこの作品の魅力は「キャラクター」だと僕は思います。
 テーマが「遺伝子」であるためか、この作品は後年の作品と比べても強く個人の出自と内面がフィーチャーされています。遺伝子によって規定される人間のありかた。キャラクターたちはそれの超克を望み、その全生命をかけて戦いに挑みます。まるで、戦うことでしか自分を表現できない、とでも言わんばかりに。
 FOXHOUNDの兵士たち。そのノウハウを踏襲しつつ、新技術たる遺伝子治療で作り出された次世代型兵士。そして、いくつもの戦場といくつもの死体の日々の中でゆるやかに摩耗していったソリッド・スネーク。誰もが戦場の中で生きつつも、どこかでそのことの破綻を感じ、どう折り合いをつけるべきかも不明瞭な中で、それでも銃を手に取ることを、半ばは自分の意思で、半ばは必然的に選ぶ。その選択が生む悲劇と、そして希望について、この作品は力強く向き合います。
 あと何気にメインテーマが今のところ一番好きな作品でした。

・MGSPW


<まえがき>
 メタルギアソリッドシリーズでも数少ない携帯機の作品であり、ポータブル・オプスのように解釈が分かれているわけではなく、明快に正史に位置付けられる作品となっています。時系列的にはMGS3の後。
 何気に世間的なメタルギア・イメージはこの作品に依るところがあるんじゃないかと思っています。わりと学生のフォロワーが多かった(ように感じている)PSPのソフトということもあり、シリーズファンではないゲームプレイヤーが一番触れやすく、また実際に触れたゲームであるような気がするので……

<あらすじ>
 1964年。一人の英雄が死んだ。彼女の名はザ・ボス。誰よりもアメリカという国に忠を尽くし、そしてそれゆえに死んだ彼女の遺志は、表の歴史から消し去られてもなお、決して絶えることはなかった。だがそれは「彼」にとっては呪いでもあったのだろう。
 ザ・ボス抹殺を最終目標とする任務、スネーク・イーター作戦から10年。彼──ビッグボスの称号を授与された英雄:ネイキッド・スネークは軍を辞め、中米で傭兵派遣会社「MSF」を共同運営している今もなお、迷いと葛藤の中にいた。
 そんな中、彼に中米の国家、コスタリカの政府から傭兵派遣の依頼が届く。戦後日本のそれに並ぶ平和憲法を護持するコスタリカは軍隊を持たず、それゆえに国内で存在感を増しつつあるCIAの軍事力に対応できずにいたのである。
 2年前のキューバ危機に代表されるように、中南米は米ソの対立が生んだ冷戦構造において重要な役割を演じている。そうした時代の中で、コスタリカもまた、そうした戦争の渦の中に巻き込まれようとしていたのだった。
 ピースウォーカー計画。CIAがこの地で推し進めている計画はそう呼ばれていた。完全なる平和を、かつてカントが夢想した永久平和を、実現するための計画。戦争と平和。だが戦争が深化し、多様化の一途を辿ったように、平和もまた、その形を変えつつある。
 スネークはかつて自分を呑み込んだ時代のうねりの中に、再び飛び込もうとしていた。

<感想>
 本作は幅広い世代に遊んでもらうことを目標としているためか、レーティングがこれまでのMGSシリーズと比べて下げられています。
 プレイの感触は、少なくともスニーキングにおいてはほとんど変わることがなかったことから、MGSのフォーマットそれ自体はそこまで残虐なものではない、と言うことができるわけですが、これは殺傷を目的としないMGSのゲーム性が端的に現れているような気がします。しかし本作はどちらかと言えば、スニーキングよりもむしろ大型の敵とのバトル要素が際立っているようにも思います。
 ハインドをはじめこれまでのメタルギアシリーズには、核搭載二足歩行戦車以外にも多くの大型ボスが登場していたわけですが、今作は特にそれが多く、メインストーリーのボス戦はすべてこうした大型兵器との戦闘になっています。装甲車、戦車、戦闘ヘリから、果ては無人兵器まで。敵の特殊部隊が出てこないということも相まって、今作はこれまで以上にアクションゲームとしての向きが強いと言えます。そのためか、今作では主観射撃が、手前側にキャラクターを配置して行われる、フロムなどがやる(らしい)ようなものに変更されていました。
 バトルとしての面白さ。これまでのゲームシステムとの差引きによって成立したこのゲームは、これまでにない新奇な面白さを獲得していたように思います。
 さてそれではストーリーの方に。
 ザ・ボスの死。MGS3において、それは彼女の物語の結末として存在し、その結末は同時に、MGS3というゲームの結末でもある。そういう意味で、MGS3は彼女の、ザ・ボスの物語であるということができるように僕は考えています。そしてそれは、同時に、ネイキッド・スネークの──ビッグボスの物語の始まりでもあるのだ、と。
 主体としてのスネークの物語。MGSPWはそれを、常にザ・ボスの言葉とともにあったMGS3を透徹した目でメタ的に描き出すことによって語り出します。繰り返され、澱んでゆくMGS3の時間は、極限の状況においてスネークを追い込み、そしてそうした任務の中で彼は<戦士>として覚醒し、確実に「ビッグボス」の運命へとその歩みを進めるのです。
 「兵士」であることと、「戦士」であること。その概念の相違は、メタルギアソリッドシリーズを始めとする小島秀夫監督作品を偏愛する伊藤計劃氏の二次創作『フォックスの葬送』で語られたテーマですが、「愛国者(パトリオット)」としてのザ・ボスと、ビッグボスがその後辿る運命のことを考えると、この相違は原作解釈としてかなり正確性の高いものであったように思います。そして、そのことが端的に現れたのがこのMGSPWだったのでしょう。
 MGS3同様この作品についてもネタバレを避けつつ語るのは非常に難しいのでこの辺りで切り上げておきます。
(あと余談ですが何気にMGSPWが今年一番長く遊んだゲームのような気がします。第五章の解放条件がけっこう厳しかったので……)

・ペルソナ4・ゴールデン


<まえがき>
 アトラスによるジュヴナイルRPGシリーズ、「ペルソナ」の四作目のリメイク。steam移植とかで話題になっていたので、五年ぶりぐらいにpsvitaのソフトを引っ張り出して再プレイしていました。データを引き継いで三周目。

<あらすじ>
 閑静な地方都市、八十稲葉市。家庭の事情から1年間そこに住む親戚に預けられることになった主人公は、ある奇妙な噂を耳にする。
 それは霧の出る日の午前0時に、電源の消えたテレビに人が映るという噂だった。マヨナカテレビ、と名付けられたその現象を興味本位で確認した主人公は、「テレビの中に入る」特殊能力が自分に宿っていることに気づく。
 そんな折、八十稲葉市で立て続けに猟奇殺人事件が起こる。不倫問題が取り沙汰されている山野真由美アナウンサー、その死体を目撃したという酒屋の娘小西早紀。そのどちらもが、アンテナから吊るされた状態で殺されていたのである。
 主人公は仲間とともに、その事件を追っていく。事の「真実」を追ううち、彼は都市に潜む悪意と、そして人間の認識の生んだ怪物と向き合うことになる。

<感想>
 ジュヴナイルRPG。世代ではないので時代の雰囲気や受容の詳細は分かりませんが、そのジャンルの中でアトラスのゲームが確固たる地位を築き上げていることは紛れもない事実であるように思います。
 女神転生シリーズ。ペルソナシリーズ。ゲームには明るくない自分でも名前は聞いたことがある、というような知名度のそれらのゲームシリーズは、しかし、その90年代的な(こう言ってよければ深刻な)雰囲気ゆえに、手軽に手を出しづらいものではありました。
 そんな折、ペルソナ5のアニメ化で巷が沸き立つ中で出会ったのがこのペルソナ4でした。
 ゲームとしての完成度は非常に高く、RPGとして、ポケモン的なキャラクター育成ゲームとして、あるいは所謂ギャルゲーとして、あらゆる要素が傑出していたように思います。
 ストーリーのテーマは「真実」。それもメディア論や人間の認識と密接に絡んだ、作り出されるものとしての真実がここでは取り扱われており、テレビがオールドメディアと呼ばれ、ソーシャルメディアが生活の隅々にまで浸透した現代においても通用するような普遍的で、それゆえに深刻なテーマが顕れています。
 ペルソナとは当然ユング心理学に表れた表現であり、そうした心理学的なアプローチも素晴らしいのですが、特筆すべきはメディア論的な視点であると僕は考えています。
 テレビの中の現実。モニター越しの現実。それは現実でありながら正確には現実ではなく、そこではあらゆる事件が消費の対象になり、死さえもまた、複数のスポンサーと編集者、それが構成するタレントによって切断され、加工されてエンコードされる商品にすぎない。そうした冷酷なメディア的認識、メディア的メッセージの構造を時にシニカルに、時にシリアスに描破せしめた本作は紛れもなく傑作であり、その意味においてこの作品は重要なエンターテイメントとしていつまでもその存在感を示し続けるだろうと思います。

・遊戯王マスターデュエル


<まえがき>
 来てしまいました。
 遊戯王はかれこれ七年ほどやっていますが、このゲームに対してはいまだに分裂した感覚を抱かざるを得ません。
 「クソゲー」と「神ゲー」の間で僕の認識は常に揺れ動き、喜怒哀楽の全てを、この10×2のマス目で構成されるフィールドに握られている感覚のとともに、常に戦い続けてきたのです。
 このゲームは、そんな遊戯王の本質を見事に抉り出しています。
(※感想は専門用語多めです)

<あらすじ>
 省略。

<感想>
 遊戯王。
 8000あるライフポイントを互いに削り合い、先にポイントの尽きた方が敗北になるゲーム。しかしそのシンプルさゆえにルールそれ自体の制約は(個人的な感覚としては)かなり軽く、そのため、カードパワーやテーマのインフレはルールが本格的に整備され、競技としての完成度が高まっていくにつれて加速していった印象があります。発動制限のないために悪用され、禁止に次ぐ禁止で歴史から消えていった数多のカードたち。
 いつからか、遊戯王は「環境」のデッキ──覇権を握っているデッキテーマでなければ勝利はおろか、善戦することも難しいゲームになってしまったような印象があります。EMEmが、十二獣が、真竜が、ファイアーウォールが。あらゆる覇権のカードが、凡百のカードを蹂躙し環境に君臨しては制限をかけられ、屍となって後進のための道となる。その繰り返しの中、僕は友人とマイナーテーマのデッキを作り続けていました。
 真紅眼。幾度となく新規カードが供給されたもののその度に前回のサポートカードと摩擦を起こして破綻し、遂に強カードが登場したと思ったら暴走して禁止に、という悲運のテーマではありますが、僕はこれに最も愛着を感じ、常に強化を続けてきました。
 そんな折。リリースされたマスターデュエルにおいて、僕はこの真紅眼デッキを携えてランクマッチへと、環境デッキひしめく魔境へと、繰り出していきました。
 ──結果は、惨敗でした。
 環境デッキたるアルデクやアダマシアに敗北したことは、それほど僕のプライドを傷つけませんでしたし、エルドリッチに関してはプレイング次第では勝利できるという事実が、僕に勇気を与えさえしていました。
 問題なのは、テーマの歴史では同格であり、存在感でも同格であるはずの青眼やマジシャンに全く勝てないという点です。
 幾度となく、僕の並べたドラゴンはカオスMAXに蹂躙されました。幾度となく、僕の立てた流星竜はその蘇生効果が活かせない除外ゾーンへと吹き飛ばされました。真紅眼の頼みの綱である罠は彼らの専用罠・魔法カード(奇しくもそれは真紅眼に欠けていたものです)に紙屑同然に焼き払われ、幾度となく僕はLOSEの4文字を見ることになったのです。
 しかしそれでも遊戯王を続けているのは、ひとえに勝利の快感──それも優れたデザインと不屈の効果を携えた真紅眼による──があるからであり、そのためならいくら敗北しても構わない、と心のどこかでは考えているからなのでしょう。
(それはそれとして神碑は禁止にしてください)

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