短かった夢の終わり END

デモCD制作過程を経て自分の現在地を知る事ができ、完全に冷めてしまった自分のラップゲームへのモチベーション。予定されていた後輩のイベントやレギュラーはこなしつつも、メンバーへ打ち明けるタイミングを探していた。ちょうど録音前に香港に仕事で駐在している10歳年上の従兄弟の家に転がりこみ1週間ほど滞在した。当時中国が新興市場として注目されており、香港の経済も活況で駐在員の生活を見て、海外で働くことに魅力を感じていた。ラップゲームしながらも、中国留学はちらついていた。まだデモ制作前はラップゲームの方が勝っていたが、制作後は急に中国留学が台頭してきた。一浪一留卒業し25歳。時間は少ない。

99年11月頃、メンバーにファミレスで脱退宣言をした。相方は中学から自分のことを知っているので、最初は留意を促したものの、最後は了承してくれた。DJのPは折角これからというのにとかなり残念がり半ば怒をあらわにしていた。自分としては申し訳ないと思う反面、どこか「これって俺だけの問題か?」とも思っていた。課題の多さに気づいてないのか?と継続を望む二人に少しイラつきもした。ただ最終的には二人とも受け入れてくれた。
例によって悪い思い出であるこのあたり、あまり記憶にない。その宣言後の当日だったか翌日だったがとにかく、すぐのレギュラーイベントのステージで脱退発表をした。
特に盛大でもなく、またメンバーも納得しているわけでもないので、淡々と最後のライブをこなして終わりとなった。いつもの演者の後輩たちとその友達、箱のスタッフとその友達。底辺らしい最後となった。後輩で一番したってくれてたハイライフのマメは泣いていた。お詫びにSHUREのマイクをあげた。なんとなく感傷的な場面かもしれないが、自分的には名残惜しさは一切なかった。「ありがとうな、がんばってな」と皆に言って、かなりサクッと終わる事になった。もちろんHip Hopは大好きなので、やめてからも何度かその箱にいった。

一度やめた後に、その箱の何周年イベントに遊びに行った。かなりの客でパンパンになりながらヒダヤンの久しぶりのライブを見た。そのときのメンバーが韻踏だったかヘッドバンガーズだったかA2Cとだったかは忘れたが2曲ほどやった。元々レゲエが強くベテランも多い客層と演者。反応はまったくで、2曲目をやっているときに「ボンボクラ」という野次が飛び始めた。聞こえていないのか聞こえていて無視しているのか淡々と進めるヒダヤン達。自分達が信じてカッコいいものをやり続けているように自分には映って清清しかった、自分達だったらどういう態度だっただろうか?いまだにあのシーンは忘れない。当然だが野次ったDJやシンガーがその後ハネたという話は聞いてない。結果としてシーンはヒダヤン達を支持し、ボンボクラは野次ったほうとなった。

2000年2月、脱退から2ヶ月後。北京に短期留学し上海を放浪の後、7月から長期留学を開始した。
一方、相方とDJは二人で上京した。東京で活動を開始し始める。相方はすぐに結果を出しB-Boyパークのフリースタイルバトルに初出場で決勝トーナメント進出。晋平太に負けて初戦敗退。翌年も決勝トーナメントに進出し前年準優勝のキンダシャーロックを破るもベスト8で玉露に敗退。このBBOYパークで名前を売り東京でライブ活動をかさねた。その後大阪に戻るが2021年現在も現役。知る人は知っている大阪の超人。押韻突き詰める最年長バトラーとして知られている。彼と一緒に見た夢が自分の宝であるのは、今だに彼が現役であることである。リスペクトではなく尊敬している。

今から考えると自分はただただ彼の足を引っ張っていただけかもしれない、私が脱退してからの方が自由に活動しているのは明らかだった。自分が思うカッコいいラッパーの枠に完全に当てはめて、それをフォローする事を最善とし、勝手にそのレベルにないと止めてしまう。自分は完全にフォロワースタンス、相方もヒダヤンもオリジナルや自分の道を貫いていた。結局のところ、自分はHIP HOPとは何かということをまったく理解していなかった。表面的なかっこよさを真似して自分を少しでも価値あるように見せたかったただのワナビーだった。続けていたら潮目は変わったか?いや続けるという選択肢はなかった。最近見た、GossyのNoteでガリヤのQがいった事が良くわかる。

ヒップホップは死ぬ気でやらないと。
そんな奴ばっかりなんだから。
それでも生き残れるのは一握りだ。


自分はBreak Boyになりたかった。今は完全に体制派のサラリーマンだが、ゆるぎない美学もあるし、たまに媚びるが、己は磨いているつもりです。終

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?