呂布the神兵

90年代、ラッパーを夢見たハーコー気取りのボンボンの昔語り。 スパルタンXのザコキャラ…

呂布the神兵

90年代、ラッパーを夢見たハーコー気取りのボンボンの昔語り。 スパルタンXのザコキャラにも歴史あり。

最近の記事

高齢化とMCバトル

49歳にもなってくると老後を考えることがしばしばある。 それは、仲良くしていた先輩がそこそこ60歳ぐらいになってきたからである。60歳なら普通に働いおられる方も多いが、65歳の元上司などは有り余る時間をどう過ごすかが課題だとおしゃっていた。でもみなさん非常に若々しく、とても老人会でカラオケやゲームに興じるような雰囲気ではない、おそらくそれらは、後期高齢者の世界かと思う。 私が憧れたラッパー達、たとえばブッダのお二方も今年還暦。ライムスターもスチャダラも50代中盤。ニトロの中

    • 毎日磨くスニカーとスキル

      日本語ラップリリックで引用されるランキングのベスト5位にはいっている「毎日磨くスニーカーとスキル」これはサラリーマンにもいえる重要な要素である。 私が参考にしていたインフルエンサーの爆速サラリーマン近藤さんは「何百冊ものサラリーマン成功術の啓蒙書を読んだが書いていることは、 1、早くする 2、早くする 3、早くする だった。」と残されている。 そう、時間はあるのだが、「時間がねえよ証言6 うだうだ寝てられねえぞ」なのである。 これには共感できるところが多く、顧客にも上司にも

      • 49歳が聞くHip Hop

        日本語ラップシーンの世代をカウントするにあたり、どうやら私は第2世代にハマった世代である。ライムスター、キングギドラ、雷、ブッダブランド、ソウルスクリーム、マイクロフォンペイジャーが目立ち始めた時期なので95年から97年ぐらいかと思う。95年ごろはアメ村のタワーレコードにいけば、「あらライムスターのセカンドでてる」「お、口からでまかせのキングギドラでてるやん。」「シャカゾンビ?だれやろ。シャカタック?」「脱線トリオ?あーあのスチャダラの仲間ね。」「ブランニューモンキーズ?えら

        • サラリーマンのHip Hopとは

          Hip HopとはラップとグラフとDJとダンスの4要素を持つカルチャーの総称、これらのアートフォームを通した戦いから生まれた文化。そしてスキルを戦わせる外的なバトルとB-Boy(be boy)という内的なバトルがあり自己を研鑽することを追求する行為の名称。とかなんとか。 これらは色々と書籍がでており色々な文系の方が定義してみたりしてその受け売りなのではありますが、少なくとも音楽ジャンルとしてのラップ、ファッションやビジネスだけでの話ではないのは、ロックやレゲエやジャズなどもお

        高齢化とMCバトル

          HIP HOPとモテの話

          もともとGossyくんのNOTEを見て書き出したこれもしばらくネタがなく、またコロナから回復して忙しくなりご無沙汰しておりました、人中の鬼神「呂布」の神平です。最近はDJ KuoさんのNoteを見て懐かしんだりしてまた違う切り口で当時のシーンを語れるのではと思っています。大阪のシーンはそれはそれは大変小さく、外タレイベントや東京ラッパーズのイベントにいけば、まあそこそこ活躍していたラッパーに会えるというのが1996年ぐらいまでで、その後の1998年頃からは結構細分化してきたの

          HIP HOPとモテの話

          MCバトル その4

          その後の試合のジャッジをどうするかという問題提起が戻ってきた審査員(古川耕さん)から出た。まあ当然ではあるが。ここで司会のRYUはまた頓珍漢なことをしてオーガナイザーのCrazy -Aを引っ張り出してくる。 また情けないことにCRAZY-Aも「なぜ、俺がきめなければならないんだ」発言で客席は激しく失望。結果的にその後は審査委員判定に戻った。 そんなこんなで合計1時間以上中断する事になったり、MC漢がステージに戻ってきて、不満マックスの客席にフリースタイルをかましたり。(今思

          MCバトル その4

          MCバトル その3

          B-boyパークMCバトル5年目は宇多丸が司会から降りてRYUに代わった。私は大阪人なので正直「このおっさん誰?」という感じだった。宇多丸さんのような盛り上げながらもしっかりとステージ上の緊張感をちょうど良く維持しながら捌くようなエンタメ性もなく、ただ司会をしているだけという感じで1回戦は割と普通に終わった。問題は、般若対フォークの判定後に判定を不服として般若がステージから降りずに審査員に抗議、その後妄のメンバーも上がってきて客席を煽り始めた。今でこそカリスマとして君臨する般

          MCバトル その3

          MCバトル その2

          2003年のB-BoyパークMCバトル。私は香港から一時帰国して久しぶりに現場に足を運んだ、たしか予選も決勝も川崎のクラブチッタだったと思う。 MCバトルも5回目を迎え、また前年の決勝戦の試合もWinnyで見れられた事もあり、予選参加者の数も一気に増えてたしか250名越えになった。運営側もタイマンでの予選ができる数でもないことから、初めての4名同時予選となりバトルというよりショーケースになっていた。ただし、予想通り、味噌もクソも一緒のような状態で、ただガナるだけとか、横の奴の

          MCバトル その2

          MCバトル その1

          ラッパーとして活動する前のクラブダウンで行われた末期症状やYou The Rockのリリパにて、最後にオープンマイク的なショーケースがあった。 当時まだ無名だった、マグマ、デスペラード、マッドタイガーポン、ATSUとか餓鬼レンジャーとかがネタなのか即興なのかを披露していた。まだ完全即興でなくともフリースタイルと言っても特に差し支えない雰囲気があった時代である。FRONTのZEEBRAの連載の中で日本で最初に即興をやったのはライムヘッドだとか、宇多丸さんはメローイエローのキンだ

          MCバトル その1

          ライムスターと俺 その2

          奈良にきたライムスターを見にわざわざ来た、確か年始でえべっさんに行ってから奈良市まで行った。なんとなくトイレに行きたかったので、クラブの目の前にあるビジネスホテルでうんこしてからエレベーターで階下に降りようとしたら、なんと御三方が既に乗っていたところに私が乗り込んだ。たった2階から1階というせいぜい15秒くらいの時間だったが、御三方と同じ空間にドギマギしているだけで1階に到着。この時2009年だったと思うが、その十数年前にマミーDソックリのフローでラッパーを目指していた自分、

          ライムスターと俺 その2

          ライムスターと俺 その1

          ライムスターを一番最初に聞いたのは、Crazy-AのアルバムのPleaseに収録された、ポッセカット Watch meでのごく短いバース。この曲は自分が日本語ラップにはまるきっかけとなった曲である。Crazy-Aが主役の曲ではあるが、面白い事に客演の方がはるかにスキルが上であり、このアルバムをステップにしてタワーレコードアメ村店4階で日本語ラップを片っ端から買うことになった。 94年当時ライムスターは俺に言わせりゃというファーストアルバムを出していた。ライムスターファンなら

          ライムスターと俺 その1

          面影ラッキーホール

          初めて面影ラッキーホールを聞いたのは、香港でデザイナー見習いの短期バイトをしていた2001年10月だったと思う。デザイン事務所のデザイナーさんが下北沢とかのインディーズバンドが大好きだったような方で、仕事中いろんな音楽をかけていた。94年から聴く音楽の8割はHIP HOPだったので、その面ラホの場末昭和歌謡感に完全にやられた。やはり特筆すべきはリリックにある。ストーリテリングがうまく、またトピックも駄目な男、女話ばかり、ファンクやHIP HOPの要素もあり瞬く間にハマリまくっ

          面影ラッキーホール

          今の音楽の聴き方

          年齢とともに聞く物、聴き方は変わってくるもので、最近はオヤジらしく、ジャズ、ボサノバ、ファンク、アンビエントなんかもBGMにかけたりする。イージーリスニング、BGMとして音楽と触れることが多くなってきた。 学生のころは、ゴリゴリのハードリスニングで、ショックウェーブのデカイヘッドホンをドゥーラグ頭にガボッと乗せて、コロンビアの半パンにNIKEのエアモック、PAYDAYのレーベルTシャツきてペイジャーのDon’t turn off your lightを聞きながらアメ村や関大前

          今の音楽の聴き方

          90年代 底辺ラッパーあるある

          ・Nasのイルマティックは凄いというが、実はそんなにピンときてない。 ・プロフィール、「卓越したスキルとその唯一無二の○○には定評がある」と自分で書く。 ・今まで弟子みたいに慕ってくれてたくせに、格上のラッパーとつながった瞬間、離れていって久しぶりにあったらごっつ見下してくる。 ・動画撮影向けられたら、「エイヨー、俺が何々」とラップし始めるが、  なれてないからハズい。 ・フリースタイルで奇跡的に韻がハマッてどよめかした後、自分でも驚いてその後しどろもどろになる。

          90年代 底辺ラッパーあるある

          短かった夢の終わり END

          デモCD制作過程を経て自分の現在地を知る事ができ、完全に冷めてしまった自分のラップゲームへのモチベーション。予定されていた後輩のイベントやレギュラーはこなしつつも、メンバーへ打ち明けるタイミングを探していた。ちょうど録音前に香港に仕事で駐在している10歳年上の従兄弟の家に転がりこみ1週間ほど滞在した。当時中国が新興市場として注目されており、香港の経済も活況で駐在員の生活を見て、海外で働くことに魅力を感じていた。ラップゲームしながらも、中国留学はちらついていた。まだデモ制作前は

          短かった夢の終わり END

          短かった夢の終わり その3

          録音は閉店後の某クラブで録った。録音エンジニアとして、レゲエのダブなどで経験たっぷりなその箱の社長Sさん。自分達のレギュラーイベント終了後の朝6:00から録音開始というタフなスケジュールだった。現役でラッパーであると同時に役者もやっている相方はたぶん2テイクぐらいで終わったが、自分はたぶん15テイク以上とらせてかなりかかったと思う。やはりトリッキーすぎるライミングが仇となった。またライブでハネるB面扱いの曲もトラックが新ネタで初録音、徹夜明け真昼、テンションの上げ方がわからず

          短かった夢の終わり その3