MCバトル その1

ラッパーとして活動する前のクラブダウンで行われた末期症状やYou The Rockのリリパにて、最後にオープンマイク的なショーケースがあった。
当時まだ無名だった、マグマ、デスペラード、マッドタイガーポン、ATSUとか餓鬼レンジャーとかがネタなのか即興なのかを披露していた。まだ完全即興でなくともフリースタイルと言っても特に差し支えない雰囲気があった時代である。FRONTのZEEBRAの連載の中で日本で最初に即興をやったのはライムヘッドだとか、宇多丸さんはメローイエローのキンだとか諸説あるようであるが、完全即興が全国的に有名になったのは、B-BoyパークでのMCバトルの存在が大きい。当時BLASTでも特集されていて、第一回のMCバトルでの予選の模様や勝者のインタビュー(クレバ、KENSHIN、イルムラ)など活字であるものの、ヘッズの中でフリースタイルバトルというものが一つのエンターテイメントとして確立された最初のマイルストーンになったと思う。また現在にも通ずるが、フリースタイルバトルで一旗上げるという、東京一極集中とコネが重要になりはじめた、日本語ラップシーンにとっては地方だろうが無名だろうが一気に立身出世できる方法論としても確立されたところが大きい。要はシンプルにスキルだけでプロップスを得るというHIP HOPの4大要素でラップだけなかった要素が生まれたのである。クレバはその時すでに、By far the dopestで知名度があったが、所詮FGの若手だろみたいに見られていたが、これで一気に注目を集めた。(地方B-Boyから見ると)

また、上述のKENSHIN、イルムラ、また、Motoy、志人、そして現在の漢などもここで知名度を上げた。さらには、晋平太やフォークマスター(現フォーク)、エローンざ尋(現エローン)など今をときめくバトルのカリスマもこのB-Boyパークがバトルでのメディア露出の起点になっていると言えるだろう。(般若はヒールとしてさらに知名度を上げる)

初期のB-BoyパークでのMCバトルは圧倒的にクレバスタイルが多く、教科書的になっていた。押韻先行でフローを重視するようなスタイルは少なかった。実際私の相方は大阪からなんの前情報もない状態で参戦してきっちりフローして決勝進出し、そのオリジナリティが評価されたが決勝1回戦で敗退、押韻先行に勝てず、2年目はスタイルをクレバスタイルにしてベスト8まで上がった。クレバが3連覇し引退した次の大会は般若と漢の決勝戦。ちょうどこの年の決勝戦はWinnyで映像が広まり、またクレバのような押韻先行よりメッセージとしてのバトルで般若と漢がバチバチにやり合い当時まだ無名の漢が勝利、そして志人のようなフロー重視が3位入賞したことで一気にスタイルウォーズの時代になったのである。クレバが3連覇した最初の3年はどちらかといえば、頭の回転の速さとかステージングのうまさで争っているのにたいし、4年目はまさにスタイルや生き様みたいなもののぶつかり合いとなった。そうして、MCバトルは多様性をもちながら5年目を迎えるのだが。ここで有名な事件が起こる。 つづく。



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