1991年から1993年ぐらいまで

我々の世代で元ダンサーという親父(自分含む)どもはほぼダンス甲子園の影響が大きいと思う。
自分は私服の男子高に通っていて当時BOOWYのギターをコピーする事に熱中していたが、クラス1軍(いけてるチーム)が放課後やっているダンスを見てなんとなく元気が出るテレビを見てみた。
ちょうどそれが第二回高校生制服対抗ダンス甲子園全国大会の2時間スペシャルの日だった。
イロモノチーム(どすこい、加藤、鹿島)、違うジャンルチーム(スンダラズ、Tボーイズ)などテレビ的な幅もありそれなりに楽しいが、もっとも衝撃的だったのは、LLブラザーズでもなく、山本太郎議員でもなく、れいかんやまかんとんちんかんだった。
彼ら4人の佇まい、4人ともばらばらの服装、話し方、所作すべてが、大阪しか知らんコテコテ高校生には、「これが東京の高校生か!」と勝手に妄想。そして始まるなりその見たこともないような黒人っぽいとも思わん踊りに完全にヤラレテしまう。

それまで毎日満員電車で迷惑なギターを抱えて通学していたが、翌日にはギターは家においたまま、そのままヨドコウの物置行き。私はその日から一軍に混ざり必死こいてISDの練習などをし、たまり場にいっては、昔のダンス甲子園のビデオなどを見せてもらい興奮する日々を送った。それからは放課後は練習、家でも練習。またれいかんは第二回で引退したが、第三回から名古屋のマイアミフェイスというグループがこれまた、ピテクスとゴーストというマイアミスタイルを持ち込む。(10数年後にそれは彼らが作った純和製とわかる)れいかんが広めたホーシングを劇速にしたようなダンスにまたやられる。当時のダンサーはみんなやってたビデオのスローやリピートでテープは即効劣化。(ピテクスに至っては早すぎてスロー再生でも追えない。)一軍がどこからかゲットしたダビングにダビングを重ねたビデオはほぼ砂嵐みたいなクオリティをなんとか目を細めて確認してコピって新しいフリを取りいれて誰がうまいかを競いあっていた。

そんな高1の10月辻元君がデッセジェニーのダンスパーティのチケットゲットしてくれた。2500円。当時どうやって工面したかわからないが、なんとか融通して行った初めてのクラブというかディスコというかダンパ。周りは遊び人の大学生とかいけてる高校生ばっかりが、ハマーやC&C Music Factoryとかで踊りまくっている。でやっぱりかかっているのはダンス甲子園でもながれているようなお馴染み曲。New Jack Swingがメインだった。我が校の一軍は急にメジャー級のイケテル人々と会って、それぞれ戦慄するもの、そのばで凍り付き壁に張り付いたままフロアを眺めるもの、いじけるもの様々な反応だった。私はというと、顔はファームの補欠だが、踊りだけはそこそこ出来たので周りの大学生に「高校生なかなかやるやん」と円のなかに何回も促されソロを披露しれいかん完コピのホーシングなどを見せ付けてやった。(気分になってた)それからというものさらにダンスにはまりイキれる場所をダンパに見出しそれをモチベーションに毎日ド田舎で練習をしていた。

あるとき中学のときの友人からK君もダンスハマってるらしいという情報を得る。Kとは中1で同じクラスで共通の趣味である映画などのことを良く話した。彼はバスケ部で背も高くちょっと都会的なところもありもててたがどこかしらマニアックな部分があった。
久しぶりに連絡を取ってみて原チャリで結構遠い彼の家に2年ぶりぐらいに訪問。
近況報告もなしでいきなりダンス話になり、有無を言わさず
SANYOのカセットデッキを持って公民館裏でソロバトルでお互いのスキルを見せ合う。
そこからは言わずもがなの情意投合、異体同心、水魚之交、どんどんダンスにのめりこむ、ほぼ毎晩お互いの家で練習、たまに桃鉄や映画。軽業が得意だった私はちゃんねるずにやられ、ポップが得意なKはジャングルに傾倒していった。スタイルはまったく違うがさらに3人を加え高2の夏、淡輪の海水浴場で開かれたダンス大会で3位になり岸和田テレビでダンスを披露することになった。そのビデオは実家にあるが、数年に一度母親が帰省中の私と家族に嫌がる私を押さえつけて上映会をし、嫁に爆笑され著しく傷つく恒例行事となっている。

ダンスには没頭していたが、実家が田舎だったので夜のクラブにはいけず、昼営業のダンパばっかり行っていた。(デッセジェニー、ジュビレーション、ジェネシス、マハラジャウエスト)QooのGM YOSHIの土曜日にいけるようになるのは大学1年になってからであった。市内に住んでいる木下くんはサーカスやアンテナに出入りしていてダンスも最先端でかっこよかった。そういえば、Electric TroubleのY君は同じ高校で1学年下。一度も話した事はないが、もろダンサーファッションで同じ通学路。めっちゃ意識していたが、当時から風格があり、その後Existとして踊りを見て「キャィン」言わされたのを覚えている。

ダンスには当然曲があり、踊りやすい曲と踊りにくい曲があったが、HipHopミュージックとはそんな出会いであった。

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