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花田清輝展と記念講演会@神奈川近代文学館

寒空の中、元町・中華街駅から徒歩で神奈川近代文学館(かなぶん)に初めて行ってきた。徒歩8分で一本道ではなく、Googleマップなしではたどり着けなかったと思う。先日たまたま元町・中華街に行くことがあって、そのときかなぶんとこの展覧会を知った。横浜に住んで20年近くになるが、それまでかなぶんの存在を知らなかったのは残念。

最初に四方田犬彦氏による講演会を聴いた。会場のキャパは220名ということだが、7割くらいは埋まっていたように思う。年齢層は高め。ちなみにぼくは花田清輝については――大澤真幸の本の中で言及されており、多少は興味があったが――、ほとんど知らない。

「前衛と韜晦」というタイトルで、韜晦には「ねこかぶり」のルビが振られている。仏語のタイトルは、L'Avant-Garde Mystifiante。

【注:以下は、四方田氏の講演内容を正確に反映するものではありません。】
挨拶と花田清輝が不当に忘れ去られているという指摘から始まり、配布資料で引用された『復興期の精神』の「女の論理―ダンテ」のテキストが解説された。結論は、女の論理とは修辞である、ということだが、このテキスト自体が逸脱的で論理的ではない。そもそも、ダンテはあまり関係なく、花田自身の思想がメインである。ラストでは、女の側にイエスを引き入れるという、かなり突飛なことをしている。まあ、そういうわけで、思いつきで書いているふしがある。

次に花田と同時代の二人――林達夫と三木清の知識人と花田の比較に入った(ぼくは三木清は『哲学入門』を読んだことがあるが、林達夫については何も知らなかった)。内容は、これらの3人の知識人が太平洋戦争前・中・後をいかに生きたか、である。ここでタイトルの「韜晦」が花田の特徴としてフォーカスされる。三木清は、昭和研究会で日本の太平洋戦争の思想的基盤を構築しており、その文脈で、米国との開戦に戦争に熱狂した。つまり、ファシストになったが、戦後、治安維持法で当局により検挙・投獄され、獄死という悲惨な末路を迎える。要するに、三木は戦争に過剰に反応したということだろうか。林達夫は、戦時中に多言語で出版された国策宣伝誌『FRONT』の編集・発行に携わるが、戦後は自分の行ってきたことを一切口外しなかった。これもまた戦中という過去への消極的な過剰反応と言えるであろう。花田は、自発的に大政翼賛会に所属せず、そのため、当局から小物と見なされ、検挙を免れた。また、戦争中に出版された花田のテキストはすべて検閲を通ったが、それは花田のテキストが難解すぎて、検閲者が理解できなかったためだった。「女の論理」で称揚する修辞(逸脱、即興を含む)こそが花田の戦略(と言うほど意識的に行ってきたかどうかはわからないが)だったのである。そうした戦略が功を奏して、花田は上記の2人とは対照的に、戦争前・中・後を通して一貫した言論活動を行っていた。

以上の比較論が講演のメインだったが、講演全体で岡本太郎、吉本隆明、バルト、ガタリ、安部公房、ヘーゲル、フーコーなどの名前とともに、花田や当時の言論シーンが語られた。質問への回答を含めて、1時間40分くらいだった。講演も引用されたテキストもおもしろく、花田清輝への興味を掻き立てられた。

次に花田清輝展を観た。通常の入場料は400円。生い立ちから始まり、各時期の活動が原稿などの現物、引用されたテキスト、写真とともに紹介される。吉本隆明や埴谷雄高との論争も紹介されていた。ゆっくり観たら1時間はかかりそう。岡本太郎を含む他の知識人たちと交流し、なんとか会を結成したりしていて、活動的な印象だった。後期は日本史に目覚めている。これはどういう経緯なのか。ともあれ、花田らしいのは、架空の人物や偽書を創作しているところである。これも韜晦の一形式と言えるのではないか。

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