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【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (2):アルハンブラ宮殿の奪回

この記事は【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (1):「シチリアーノ」の源流?からの続きです。

そもそも、神聖ローマ帝国とバチカン(ローマ教皇庁)の支配下のヨーロッパ
宮廷に、音楽らしきものが存在し始めるのは、歴史的にみて、1492年の
「アルハンブラ宮殿の奪還」から始まると考えられて来ました。

その理由は以下のようなものです。

ヨーロッパを支配したキリスト教会は、西暦1054年、コンスタンティノポリス総主教庁(東方正教会)とローマ教皇庁(ローマ・カトリック教会)に分裂し、二つの権力構造の ”種”の準備がようやく整い始めた時期です。
本来なら、バチカンの宗教統制はスムーズに欧州に広がるはずでした。

しかし同時期にヨーロッパ世界は、大別して3回の、外敵の侵入との戦乱を経験しなければなりませんでした。

一つは、チャイコフスキーの音楽にてご案内する「タタールの侵攻」であり、もう二つは、西暦718年から1492年まで続く、レコンキスタ(イベリア半島の再征服)と、その期間中、9回に渡る、キリスト教東方教会を救うための十字軍派遣、であります。

このレコンキスタと十字軍の二つの戦闘の相手は、トルコ・中東を支配するイスラム帝国との戦いでありました。

ローマカトリック教会の命令によるヨーロッパ王侯達が、戦った相手の音楽がこれ。

(向田邦子氏の作品「阿修羅のごとく」のTVドラマ化の際、メインテーマ
として使われた曲でもあります)

キリスト教会を起源にした音楽とはまるで出自の異なる、全くの異教徒の
音楽で、その強靭な戦闘力と、寧猛で執拗な攻撃を誇る、イスラムの軍隊を相手にする時、必ず欧州軍を悩ませた、音楽。

現在のスペイン・ポルトガルが在するイベリア半島が、イスラム王朝により征服されたのは、西暦718年のことでした。
以来、ピレネー山脈の向こう側、バチカンとは海一つ隔てた対岸に、イスラムという、とんでもない異教徒が居座っていたのです。
バチカンとしては、何としても追い払わねばならない「仇敵」でありました。

一方、イスタンブールを中心にした東方正教会の勢力圏内に侵入したイスラム勢力から、東方正教会を救うために編成された「十字軍」の派遣は、1096年の第1回十字軍遠征から数えて、大きなものだけでも9回に及びます。

が、多くの犠牲も空しく、遂に1291年、イスラム帝国によりエルサレム王国が陥落し、残余のキリスト教国も掃討され、中東におけるキリスト教国家は全滅の事態となり、十字軍派遣は惨敗のうちに終焉します。

英国・フランスなど名うての王侯貴族は、十字軍遠征により疲弊しつくし、彼らのすぐ隣、イベリア半島に残っていたイスラム王朝を追い出すことなど不可能でありました。

苦渋の200年ののち、1492年、ようやく、コロンブスをアメリカ大陸発見の旅に送り出したあの有名なスペインのイザベラ女王によりアルハンブラ宮殿は奪還され、イベリア半島でのイスラム王朝征服は終結します。

この1492年は、ヨーロッパ史で大変重要な年です。
まずは、大懸案が解決したローマ教皇庁は一気に「ユダヤ教徒追放令」を出し、異教徒追放に乗り出します。異端審判と魔女狩りによる、長く暗い中世の暗黒時代の始まりです。
同時に「アメリカ新大陸」が発見されスペイン王朝の黄金期が始まり、ルネサンスにつながる新興経済の発展により、封権領主とキリスト教会の勢力拡大が始まるのです。

ようやくヨーロッパ各地の王宮には、平穏が戻り、バチカンによる権力構造の構築がスタートし、それを彩る華やかな音楽がヨーロッパに満ちていくのです。

(実際の処、この時まで、グレゴリオ聖歌は、庶民どころか王侯貴族の宮廷にすら流れる余裕はなかった、と考えるのが妥当でしょう。)

なんと、1685年のバッハ生誕まで、あと200年余りしかありませんでした。

さて、以上のような大雑把なヨーロッパの歴史の表舞台にはほとんど登場
しない、静かな民族、ケルトに、話を戻しましょう。


⇒ 【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (3):幻の民 ケルト へ
  続きます。


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