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スピン的哀しみのクラシック音楽史(1):真夏の夜の夢-メンデルスゾーン

真夏の夜の夢 (フェリクス・メンデルスゾーン)
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
演奏:フランクフルト放送交響楽団 収録:2014年6月29日
1.序曲 ホ長調 作品21 (1826年 作)
2.付随音楽作品61(1843年 作)
  Nr. 1 スケルツォ
  Nr. 3 歌と合唱
  Nr. 5 間奏曲
  Nr. 7 夜想曲
  Nr. 9 結婚行進曲 - ハ長調、
  Nr. 11 ベルガマスク舞曲と終曲

ずいぶん以前のこと、ショスタコービッチの交響曲の全曲を聴きとおした際、ふと頭の中に疑問が湧きました。
一体、いつごろから政治や権力が、音楽に絡みつき始めたのだ?・・・と。

ショスタコービッチは、ソビエト連邦・共産主義専制国家の中で、限られた思考範囲での曲作りを強いられました。その一昔前、ナチス政権下では、
メンデルスゾーンの曲は演奏を禁じられました。ユダヤに対する人種差別の対象となった悲劇です。
少なくともベートーベンに時代までは、左様な思考制圧や人種差別は、音楽の世界では在り得ませんでした。

では一体、いつから、敬虔で芸術そのものであったクラシック音楽に、
イデオロギー的な、人種差別的な「色彩」が絡まり着いていったのだろう?
そのスタートは何処で、どのように変遷したのだろう? 
・・・という疑問が私スピンの頭の中に渦巻きました。

その疑問に自分なりの答を出したく、ある時期、ベートーベン以後の作曲家の音楽を、しらみつぶしに聴き続けました。
なかなか納得できる「説明」を見つけることはできませんでしたが、
うっすら浮かんだ「ここがスタートではないか?!」と思うのが、

*メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」と「真夏の夜の夢」、
*その対極にある、リヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指輪」

ではないか?・・・と、思い当たりました。

その思考過程を「スピン的哀しみのクラシック音楽史」としてまとめたものを、お読み頂ければと存じます。

まずは、ユダヤの血を引いたメンデルスゾーンと、ワーグナーの係わりから始めましょう。

メンデルスゾーンが書いた「フィンガルの洞窟」についてワーグナーは、
「メンデルスゾーンは、音楽による一流の風景画家」と評しました。

私には、その後のワーグナーの言論を考えると、これは「侮辱を含んだ
個人批判である」と聞こえます。

当時、「風景画家」という評価は、画家にとっては、侮辱に近い評価だったでしょう。なぜなら、「崇高なる神」を描くこと、「偉大なる人」を描くことが、当時の画家への最高の賛美に他ならないからです。
その上、音楽家を「画家にすぎない」と決めつけたことは、明確な人格否定です。

なぜ、ワーグナーは「風景画家」程度だ、とメンデルスゾーンを見下げた
のか・・・個人的な恨み? または、「ユダヤ人」であるから・・・?

論証を進める前に、メンデルスゾーンの人柄を推し量るべく、まずは「真夏の夜の夢」を聴いてみましょう。

ご存知、シェークスピアの舞台劇「真夏の夜の夢」の劇中音楽として
書かれた、メンデルスゾーン17歳の時の名作の一つです。

「真夏の夜の夢」と聞いてピンと来ない人も、有名過ぎるほど有名な「結婚行進曲」といえば、あーそうか、と思われるでしょう。

これは、現代音楽に通じるテクニックと感性に満ち満ちた名曲です。
最初と最後の、幻想的で、夜の闇に漂うしじま のような曲想は、モーッアルトにも似た 純粋な魂が生み出す、美しい"結晶"です。

そして、フィンガルの洞窟*序曲(↓) 
これが問題の「風景画家」といわれちゃった曲。

ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレの騎行」とかを、
ご存知でしたら、以上の2曲と比較してみてください。
まるっきし基本的なものの考え方が違う音楽である、とご同意いただける
ことでしょう。

スピン的哀しみのクラシック音楽史(2):メンデルスゾーン 交響曲第4番
 へ続きます。

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