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スピン的哀しみのクラシック音楽史(5):ブルックナー 交響曲 第4番 "ロマンティーク"

アントン・ブルックナー:交響曲 第4番 変ホ長調 "ロマンティーク"
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
演奏:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
収録:1988年10月16日

この記事は、スピン的哀しみのクラシック音楽史(4):ワーグナー ワルキューレの騎行 の 続きです。

アントン・ブルックナーは、1824年9月、学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近いアンスフェルデンという小さな村に生まれました。
ベートーベンの死の3年前、ワーグナーの誕生の11年前、ブラームス誕生の
9年前です。

敬虔なキリスト教徒として教会や修道院で暮らし、貧しい生活を経て、
リンツ大聖堂のオルガン奏者として名声を博し、ウィーン国立音楽院の教授に就任したのは1868年、47歳の時。作曲活動を始めたのは、相当に遅く、最初の交響曲を完成したのは、なんと45歳の時。
この「 交響曲 第4番 変ホ長調」の初版を完成したのは 53歳の1874年。

改訂作業を経て、まずリンツにて1876年に初演、続いてウィーンにて1878年に公開。このとき、ブルックナーは57歳です。
曲は、初演から好評をもって迎えられ、交響曲作曲家としてのブルックナーの名声は確立されました。

曲は、ブルックナー独特のスタート、 低弦のかすかなトレモロから、
静かに、穏やかに始まります。

まるで、欧州の深い森に低く垂れ込めてただよう朝霧のよう。

朝日が指し込むかのように、低い弦のトレモロが高揚し始め、金管が微かに加わりはじめると、秘剣エクスカリバーを手に、湖の騎士ランスロットを
従えたアーサー王が、白馬に乗って森の奥から近づいてくる・・・・
ふと、そんな映像を思い浮べてしまいそうな・・とても印象的な導入部です。

「ロマンティーク」という言葉を、「恋とか愛とかに関係するほんのりとした心持ち」のことと捉えてしまうと間違ってしまいます。
英語本来のニュアンス、「古き良き時代を彷彿とさせる風景・情緒、又はそれらへの憧れ」と捉えてください。 すると、ブルックナーがとても身近に感じられるようになるでしょう。

針葉樹と広葉樹が入り混じり、うっそうとしたヨーロッパの森々。
雪を頂くアルプスの連なり。 流れ出る清く澄んだ河、
流れ落ちる滝、 水しぶき、 たちのぼる霧。  青く澄んだ深い湖。

吹き抜ける風、 流れる雲。 河岸にそびえる古城。 苔むす石垣。 中世の騎士たちの戦い。はためく王旗・・・

北欧のバイキングのような荒々しい生活ではなく、静かな森の風景や荒々しい冬の情景の中、一本づつ丁寧に紡いだ民族衣装を纏い、牧羊と農作業に
生きる穏やかな民の暮らし。
チーズの薫りのなか、夕暮れに村々に響くチャペルの響き。敬虔な祈り・・
ヨーロッパの原風景が眼前に広がります。

普仏戦争、フランス第二帝政崩壊。パリコミューン。ドイツ帝国成立。 大英帝国インド占領 ・・・
きな臭い、騒然とした世界のなかで、旧き良きヨーロッパの自然と生活を思い浮かべさせる音楽です。

ブルックナーは若い時代からベートーベンの第9交響曲を愛し、またワーグナー音楽にも強く惹かれていたと伝わっています。
1873年、完成途中のバイロイト祝祭劇場へ赴き、自作の交響曲第3番を
ワーグナーに献呈しようとし、ワーグナーから歓待を受けたとも伝ります。

その5年後に公開されたこの曲は、浄く貧しい教会と修道院で育ち、大成しても敬虔なキリスト教徒であり続けたブルックナーからの、自らの勢力範囲内に取り込もうと画策し続けた ワーグナー への回答でありました。

「音楽や他の芸術は政治の小道具ではない、権力を賛える勢力に加担することはできない」という音楽による 明確な宣言です。

1876年。リヒャルト・ワーグナーは63歳になっていました。
バイロイト祝祭劇場が完成し『ニーベルングの指環』を華々しく上演。
相変わらず、ドイツ帝国宰相ビスマルクの反カトリック政策である文化闘争を支持したり、カトリックだけではなく横暴なフランス精神との闘争を主張したり、ドイツを背負う思想家の姿勢を強調して権力中枢に入り込もうと
活動していました。
しかし、ビスマルクは、ワーグナーの「ドイツ精神の神殿としての劇場計画」や支援要請を拒否します。

ワーグナーが、権力中枢から用済みとして切り捨てられた瞬間でした。

ワーグナーはビスマルクとプロイセンに失望し、「今日のドイツの軍事的優位は一時的なものにすぎず、アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と身勝手な変節の言葉を呟き、「私はドイツ精神なるものに何の希望も持っていない」とまで、アメリカの雑誌記者デクスター・スミスへの手紙で述べ、1877年には、あろうことか、バイロイトを売却して、アメリカに移住する計画を公表する、という大混迷の老後を迎えようとしていました。

ブルックナーの澄み切った眼から、戦乱と専制を謀るワーグナーへ突き付けられた離縁状に等しい「交響曲第4番」は、しかし、混迷を深める世界を
回復する力にはなりえませんでした。

その後、ブルックナーは、交響曲第7番で失われゆく世界への葬送曲を、
第9番で押し寄せる暴力と軍靴の響きを描くことになってしまいます。

このブルックナーの第4番に呼応するかのように、ワーグナーがバイロイト祝祭劇場完成を記念して「ニーベルングの指環」を華々しく公演した、その年、1876年に発表された ヨハネス・ブラームスの「交響曲 第1番」を、ぜひもう一度、振り返ってみましょう。

⇒ スピン的驚きのクラシック音楽史(6):ブラームス 交響曲 第1番 ハ短調 作品68 へ続きます。


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