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12. 孝徳と中大兄の確執


 乙巳の変(大化改新)は軽王子(後の孝徳)の支援で行われた。周囲の勢力も孝徳の方が多かった。なぜなら乙巳の変が起こるおそらく10年ほど前から、軽王子(後の孝徳)は難波一帯に自分の勢力を広げていたからである(遠山美都男『大化改新』に詳しい)。したがって乙巳の変も中大兄主導ではなく、策の多くは軽王子(後の孝徳)と中臣鎌足との間で打合せされた可能性があるのである。

 したがってそのような状況の中で孝徳が王位について難波に遷都したが、その後、重臣が次々と亡くなっていった。654年、中大兄は大王に対して倭京に遷ることを薦めたが、大王が拒否すると、中大兄は母の元皇極帝と大后の間人、大海人を連れて倭京に戻ってしまった。臣下も中大兄に随ったという。

 孝徳が崩御するあたりの記述は「哀れな大王」という印象しか与えない。自分の妻も、家臣もすべて取られてしまう大王なのである。そんなことになる前に軍隊を動かして中大兄を捕まえることができなかったのであろうか。どこから見てもおかしな話であり、むしろ中大兄はほぼ10年をかけて孝徳を追い詰め、ついに自殺させたか、もしくは殺してしまったのではないかと思われる。百官が中大兄に従ったというのはすでに大王がいなくなっていたからであろう。中大兄一行が全員、倭京に戻ったので失意のあまり憤死したと書紀は伝えるが何度読んでも納得がいかない。大王がいなくなったので全員が中大兄にしたがったと考えた方が自然である。

 孝徳の遺児である有馬王子は中大兄を恐れ、警戒し、精神病を装っていた。南紀白浜にある牟婁の湯で療養して飛鳥に帰ってきたが、牟婁の湯の素晴らしさなどを斉明女帝に伝えたので、斉明女帝らも南紀白浜に行幸した。その間に、蘇我赤兄が有間王子に近付き、斉明や中大兄の失政を語りながら自分は有間の味方であると告げたので、有間王子はそれを信じて謀反の考えを伝えた。有馬は4年前の父、孝徳の死に納得のいかないものを感じていたはずである。殺されたのではないかと疑い、自分も殺されるかもしれないと思っていたであろう。 

 ところが蘇我赤兄は中大兄に密告し、謀反は露見し、有間は飛鳥からはるばる斉明や中大兄が滞在していた南紀まで送られた。中大兄の尋問に対して「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答え、白浜の手前の藤白坂で絞首刑となった。斉明4年11月9日(658年12月9日)のことで享年19歳であったという。これは中大兄の陰謀である可能性が高い。

 処刑前に歌ったという下の2首の辞世歌が残っているが、秀逸なるがゆえに本当の辞世歌ではないと思われる。この歌を初めて読んだときには涙が出た。これだけこなれた淡々とした心情を死を前にした19歳の人物が歌えることができたとは思われない。

020141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(いはしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかへりみむ)

020142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
(いへにあれば けにもるいひを くさまくら たびにしあれば しひのはにもる)

 孝徳(軽王子)にはもう一人遺児がいた。軽王子は元々は中臣鎌足と仲が良く鎌足に寵妃を与えていたが、生まれたのが定恵である(『多武峯略記』)。つまり、定恵は鎌足の子の可能性もあるが、孝徳の子であった可能性もある。しかし鎌足は孝徳の子であることを知っており、中大兄がこの定恵を殺すことを恐れて653年(白雉4年)5月、10歳で唐に学僧として送りだした。

 665年(天智4年)9月、定恵は帰国するが12月には百済人に暗殺されてしまう。理由は嫉妬だという。定慧伝には「百済の士人,窃かに其の能を妬み、之を毒す」とある。百済の士人とは中大兄が遣わした百済人であろう。

 孝徳大王、有馬王子との因縁を考えると、暗殺させたのは中大兄であると考えられる。孝徳をおそらく無惨に殺したことがその背景にあると考えれば3人の死は無関係ではなさそうである。3人の死は連動している。つまり有馬王子を陰謀で殺したことから、孝徳大王を殺したことが疑われ、また孝徳と有馬を殺したことから、定恵を殺したと推測され、逆に有馬と定恵を殺していることが、孝徳を殺したという心証を強めるのである。定恵が孝徳天皇の落胤とする説を肯定する学者は多くないようであるが、定恵が孝徳の落胤であり、中大兄が暗殺を命じたとすれば話が通じてくる。また鎌足はこのことを恐れて定恵を唐に逃がしてやったという説明も成り立ってくるのである。


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