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「13歳からの地政学」ができるまで①娘の出生

入社23年目の中年サラリーマンは、追い詰められていた。
長女が生まれたのは2020年4月11日。わずか4日前には新型コロナウイルスの蔓延を受けた最初の緊急事態宣言が発令され、街から人影が一斉に消えた。
新聞社に勤める私は、この年の4月1日をもって1面記事など重要な国際ニュースを取り扱う編集者のポスト(デスク)に異動していた。日本のメディアにおいて国際ニュースの占める比重は年々、増していて、時差のために24時間、気が休まらないこのポストは新聞社の中でも最もきつい激務の一つだった。会社での拘束時間が15時間にわたる日も珍しくなく、帰宅しても仕事の連絡から全く離れられないワークスタイルだった。
私は3月、大変な新生児育児の期間を乗り切ろうと、ベビーシッターやホームヘルパーにできるだけ頼る戦略を立てた。費用はかさむが1日おきにでもシッターに来てもらえれば、妻もかなり楽になるはずだ。
妻の実家は都内だが、義母はまだ50代で働いており、里帰り出産ということにはなり得ない。そもそも里帰り出産というのは専業主婦が大多数だった時代に一般的だったモデルで、共働きの親を持つ世代では急速に成り立たなくなっている。ただ、義母も週1回は来てくれそうだ。私も拘束時間が10時間以下の日も時々あるので、その日なら育児に携われる。
しかし、こういう甘い見通しはコロナによって一気に吹き飛ばされた。4月7日に緊急事態宣言が発令されると、すべてのシッターの予約がキャンセルされた。それに、義母も移動ができなくなった。
いよいよ誰にも頼れなくなった。そしてコロナのせいで、仕事はさらに忙しく、緊張を強いられるものになった。
そんな中で、長女が生まれたが、妻はその後、予想以上に衰弱した。そうでなくとも出産は母体に交通事故に遭うレベルのダメージをもたらす。
コロナ対策で病院への出入りも禁じられ、スマホの画面越しにしか娘を見られない日々が続いた。どうする?もう絶対に家庭と仕事の両立はできない。この状態の妻子を家に取り残してワンオペ育児を強いたら、2人とも死んでしまうかもしれない。
深夜、パソコン画面を前に自宅で頭を抱えていると、Teamsのメッセージが届いた。それは海外の先輩編集者からのもので、こう書かれていた。
「娘さんが生まれたそうで、おめでとうございます。育休は取らないの?」

育休。そうか、その手が残されていた。でも、育休なんてとったら、今後のキャリアでどんなにマイナスになるかわからない。実際、他社の新聞社ではあるが、男性で育休をとって左遷されたケースも過去に見てきた。今のこの激務を乗り切れれば希望するポジションに行かせてくれるというのがある上司の示唆だった。もし育休を取得したら、その希望はかなわなくなる。それどころか、サラリーマン人生は終わるかもしれない。
私がパソコンのスクリーンに映る育休という言葉を凝視して、最初に思ったのは、こんなことだった。家庭より、仕事の方が大事。仕事一番で頑張ることが、家庭のためにもなる。そんな昭和的な価値観にどっぷりつかっている自分がいた。


娘との初めての対面


4月17日、退院の日が来た。私は病院のロビーで初対面となる娘を待った。そして、赤子の娘が妻に抱かれて登場した。彼女を自分の腕の中に抱いたとき、私の目からはこれまでにないあり得ない量の涙がしたたり落ちた。マスクがみるみる濡れていく。もう、キャリアはどうでもいい。この家庭を中心に考えないといけない。仕事は後で何とかなるかもしれないが、家庭はそういうわけではない。
妻子の体調の問題もあり、私は育休を取ることを決め、ほどなく上司に相談した。本来、育休を取得する際には事前に相談しておかないといけないが、今回はコロナの特殊事情が勘案され、スムーズに手続きは進んだ。
その後、期間を決めずにスタートした育児休業は夏までほぼ4カ月、続くことになった。休業とはなっているが、会社にとっての戦力にならないという意味でそうであるだけで、本人にとっては休みとはほど遠い。朝昼晩の3度の食事作り、掃除、洗濯、お買い物、入浴、育休中は仕事よりも忙しく、慣れていない分、仕事よりも大変だ。最初は夕食をつくるのに3時間もかかり、スーパーでの買い物にも異様に長い時間をかけていた。ミルクもまともにつくれず、おむつ替えもおぼつかない。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」というのは山本五十六の名言だが、こんな感じの妻の指導のおかげで、私も徐々に戦力化していった。ただ、苦闘の結果、最初の2カ月で10キロ痩せた。
しかし、寝返りや入浴、ベビーカーでの散歩など、彼女にとってあらゆる初めてのことを共にできたのは大きな喜びだった。毎朝6時に近所をベビーカーで散歩した夏の美しい木漏れ日は、今でも鮮明に思い出す。ちなみに2年たった今でも娘との公園や児童館通いの習慣は続いている。

妻のエプロンでドヤ顔


もう一つ良かったのが、自分がこれまで見えてこなかった世界が多少なりとも体感を通じて見えるようになったことだ。同じ屋根の下にいるのに、以前の自分は妻の苦労や、家事のこともわかっていなかった。積極的にわかろうともしていなかった。
今は以前よりはわかる。今回の局面で私がいくら苦闘していたとしても、それは妻の苦労には遠く及ばないものだったことも。そして、2人がかりでもこれだけ大変なのに、ワンオペ育児をしないといけないお母さんたちはどれだけ大変かと強く思った。ましてや、コロナ禍の期間中で助けを得られにくい孤立した環境では、どれほどきつかったことだろうか。過酷すぎてつらいという叫びすらあげる余裕がない。そんな多くの人たちの声にならない叫びを私は聞けていただろうか。
育休を終えて職場に復帰したが、意外にもあきらめたはずの私のキャリアはつぶれなかった。上司の対応も想定よりもずっと温かいものだった。というか、育休をとることでキャリアが終わると考えていた自分こそ、終わっていたのだろう。もしその当時の自分が若い男性の部下からの育休申請や相談を受ける立場にいたら、彼にどんな反応をしただろうかと想像するだけでぞっとする。そんな人間は終わらせるべきだし、もし育休をとることをマイナスにする組織があるのなら、それはそのうち淘汰されるだろうと思う。
ただ、私が戦力から抜けた分、仕事を抱えることになった同僚たちへの感謝の思いは忘れることはない。将来、同僚が同じような事情で休業に入った時に、自分の負担を増やすことで恩返ししたいと考えている。

抱っこと仕事の両立もできるようになった


上司の配慮で復帰後の業務負担は軽減され、仕事はすべて在宅でできるようになった。「13歳からの地政学」は、この在宅勤務の期間に構想が練られ、執筆が始まった。激務から離れてみると、自分の中で長年にわたって積み上がった思いを書きたいという気持ちがむくむくと膨れ上がっていった。自分も年齢でみると人生の折り返し点をとうに過ぎた。子どもたちの将来のために何か残したいという気持ちも強くなっていった。





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