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映画が芸術である以上、作品の中には作者自身がある

映画監督の吉田喜重によれば、小津安二郎は自分のことを「菰をかぶって、橋の下で客の手を引く女郎」と言ったそうだ。「小早川家の秋」の中に、若者に迎合したシーンがあるとして、吉田が批判したことに対し、小津が言った言葉らしい。

なかなか興味深いやりとりだが、このエピソードから、小津は「自分の仕事(映画監督)は客商売だ」と考えていたことがわかる。それとともに、小津が当時から、大監督として祭り上げられていたことも伝わってくる。小津は、周りのそういう目に対しても、「俺はそういう監督じゃない」と言ったのだと思う。

出典は不明だが、小津は「自分は豆腐屋」と言った発言があるらしい。同じような映画ばかりだという批判に対し、小津が答えた言葉らしいが、これもやはり、「俺はそういう監督じゃない」と言ったのだと思われる。

どちらの言葉も、批判に対する放言として発せられた趣きがあるので、これを切り取って、云々するのは危険かもしれないが、小津という人間を理解する上で、無視できないパーツではある。

では、これらパーツから小津のなにが理解できるのか。それは、小津が映画というものを非常にシンプルに捉えていたということだ。プリミティブに、と書いても良い。つまり、小津は「常に客に喜ばれる映画を撮ろうとしていた。ただし、自分が撮りたいように撮ることによって」と考えていた。少なくとも、ボクはそういう風に理解している。

批評家や研究者スジでは、小津の映画の特徴として、奥深さとか精緻さなどが良く言われる。そういう議論は、オタク的に盛り上がるには良いだろうが、ボクはこの手の「知的お遊び」には興味がない。方法論や技術論などの類は、作品分析には役立つかもしれないが、作品鑑賞には無益だ。場合によっては、有害だとさえ思っている。

ボクが興味あるのは、「小津の作品を通して、小津という人間が見えてくるか」ということだ。「映画が芸術である以上、作品の中には作者自身がある」と考えているからである。平たく言えば、登場人物のうち小津は誰だとか、このセリフは小津の言葉だとか、この構図は小津の視点だとか、とにかく小津自身に直接つながるなにかだ。

そういう批評は、すでに世に出ているかもしれないが、映画批評は基本的に読まないことにしているので、知らないし、知りたくもない。それで良いと思っている。