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溝口健二監督は、ワケあり女の生き様ばかり撮った、スケベである

最近、溝口健二監督の映画作品を何本か観ているが、溝口の作品を観ると、なんか疲れる。作品を観るたびに、何か書きたいなとは思うが、気持ち的にグッタリしてしまって、作品について、思いを巡らそうという気になれない。

疲れる理由は、溝口作品には、ダマしたり、ダマされたり、裏切ったり、裏切られたり、そういった揉め事がとにかく多いだからだ。溝口が世の中をどう見ていたかが良くわかる。つまり、溝口は、この世の中は揉め事によって成り立っていて、それを描くことが映画だと考えていた、ということである。そういう意味では、非常に正直な監督だと思う。

溝口作品の多くは、女が主役だ。そのほとんどはワケあり女だ。こういうところにも、溝口の趣味嗜好が見てとれる。つまり、女好き、スケベということである。自分のそういう部分を、作品中に出しまくっている、そういう点でも、正直な監督だなと思う。

まとめると、溝口は、世の中の揉め事に巻き込まれるワケあり女の生き様ばかり撮った、スケべということになる。溝口をバカにしているわけではない。スケベでないと、芸術家はできないこともあるからだ。芸術家にとっては、スケベは美徳ですらある(知らんけど)。

それはともかく、溝口の作品はあまりにもとっつきにくいので、溝口のドキュメンタリーとかないかな、と思い始めた。探してみると、新藤兼人監督の「ある映画監督の生涯」というのがあったので、観てみた。

観たら、メチャクチャおもしろかった。新藤を含め、生前溝口と一緒に仕事をした多くの当事者らを相手にした、かなりガチのインタビューを中心に構成されているので、おもしろくないわけがない。

不満があるとすれば、それぞれのインタビューをもっと(全部)観たかったということだ。おそらく、映画の尺の問題だろうが、話の途中でバッサリ切られているインタビューもあった。残念なことである。

この映画のハイライトは、一般的には、田中絹代への突撃インタビューということになるだろうが、個人的に興味深かったのは、中野英治(俳優)と内川清一郎(助監督)の話である。

中野は、溝口の女出入りについて、あけすけに話した。例えば、こういう具合だ。

「(溝口の背中を切り付けた女について)売春婦です。やとなという京都の特殊な名前のね。派出婦の売春婦ですね」

内川は、リアルな溝口の姿を軽やかな関西弁で描き出した。

「(風呂に入った溝口は)パチっと背中を叩いてね、『これですよ、これでなきゃ女は描けませんよ』って。こっちはもうふーという雰囲気になってね、じゃあ先生、私も女に切られるように、ひとつなにか極道してきます、と言わざるを得ないような雰囲気を持ってたね」

一応説明しておくと、溝口は、おそらく痴情のもつれから、売春婦に背中を刃物で切りつけられ、入院したことがある。スケベ溝口を物語る有名な武勇伝だ(やられた方だが)。

内川の話でもう一つおもしろいのが、溝口が良くゲリをするというエピソードだ。文字に起こすと、おもしろくもなんともないので、興味のある人は、自分で探して、内川の話すところをじかに聞いてほしい。

あと、おもしろいと思ったのが、溝口が愛用したシビンのカットが一瞬入るところだ。最初は「これ必要か?」と思ったが、後でジワジワくる。進藤に「ここでちょっと笑わせよう」という意図があったかどうかは不明だが、計算だとしたら、相当なものだ。

このカットが入るのが、乙羽信子へのインタビュー中なのだが、乙羽と言えば、新藤の恋人(当時)だっだ女役者だ。溝口のドキュメンタリーに、自分の愛人を出し、そこにシビンのカットを入れる。新藤の類い稀なセンスが光る。シビン関連で思い出したが、新藤の別の作品で、乙羽が失禁するシーンがあって、軽い衝撃を覚えたことがある。

つい、溝口ではなく、新藤の話になってしまった。