『まなざしの革命』私たちは世界を変えることはできないが、世界の見方は変えられる!

まなざしの革命 ~世界の見方は変えられる~

久しぶりに多くの人に届けたい、読んでもらいたい本に出会った。

この停滞した閉塞感のある世の中を自分の「まなざし」ひとつで変えることができる。
固定化してしまった自分の「まなざし」を変えることで、世界の見方を変えることができる。
「他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」という言葉がある。
ただ、多くの人は、そう知っていても、自分を変えることより、他人や取り巻く社会、組織が変わってくれることによって、良くなることを望んでいる。
うまくいかないのは、他人のせい、社会のせい、コロナのせい。
外に原因があり、外が変わることで、良くなると信じている。
というか、信じたいのかもしれない。
そんな「仕方ない」が蔓延している中に、
本当に「仕方ない」のか?
本当に無力なのか?
本当に自分に変える力はないのか?
という問いを投げかけてくれる。
そして、自分の「まなざし」がいかに固定化してしまっているか教えてくれる。

固定化するまなざし

本書の1章「常識」の”固定化するまなざし”が素晴らしいので、引用させていただく。

私たちの多くは自分のまなざしが固定化しているとは思っていない。自分は人と比べて柔軟な視点を持っており、頑固なまなざしを持っているのは相手だと思っている。自分は他者の意見を受け入れ、その違いにも寛容で、自由に発想を変えるられると信じている。だから、普段、私たちは自分の見方を変えたいと思っていない。むしろ、柔軟でない相手や融通の利かない物事を変えたいと思っている。

まずは、自分のまなざしがいかに固定化してしまっているかに気付くこと。
では、どうやって固定化したまなざしを変えることができるのか?

私たちが見方を変えるのは、自分にとって都合の悪いことが起こったときだ。社会や他者と物事との関係の中で自分にとって不都合な状況が生じたときには、私たちはそれを何とか切り抜けるために見方を変えようとする。

しかし、ここで注意しなければならないことがある。

私たちは変えるのは自分自身への認識ではなく、表面的な物事の解釈であることが多い。
物事の解釈を変えることも見方を変えることではあるのだが、それは自分の欲求に合わせて都合よく見方を変える場合が多い。
そこでの見方を方向づける欲求そのものは自分の深い部分で固定化しており、それには気付かない。
私たちは物事の解釈を変更することで、日常の問題で在れば何とか乗り切れるかもしれない。だが、深刻な事態が起こったときには、それだけではうまくいかなくなる。
私たちは根本的な見方を変える必要性に迫られる。

ただ、残念ながら、自分の見方を変えるのはそう簡単ではない。

これまで長い時間をかけて培ってきた自分の根幹に関わることほど、見方を急に変えるのは難しい。それにはとてもエネルギーと努力が必要になるのだ。
特に社会に大きな変化が訪れるときや、答えのない深刻な問いが自分に突き付けられ、根本から見方を変えねばならない状況になるほど、私たちはこれまで以上にますます自分のまなざしを固定しがちだ。自分の見方が間違っていると改めるよりも、自分の見方は間違っていないことを確認する方向に物事の解釈を変更する方が私たちには容易い。

表面上の自分の都合のよい解釈を取り入れて、安心したくなってしまうのだろう。

私たちは自ら進んでまなざしを固定化することを選ぶのである。
答えが定まらない不安定な状態は、私たちに大きな苦痛を強いる。その不安の激流に流されてしまわないように、何か答えを決めてそこから動きたくない気持ちが強まるのだ。
だから状況が厳しくなるほど、自分の都合の悪いものは視界から追いやって、自分が見たい部分や一度信じたことにだけ目を向けがちになる。

「人間は見たいものしか見ない」とよく言われるが、まなざしが固定化すると物事の本当の姿を見ることができなくなってしまう。
そして、それに気付かないことが、いかに怖いことが改めて考えさせられる。

小さい頃から教育されてきた知識、長年にわたって社会で信じられてきた概念、多くの人が口にする情報。それらは繰り返し唱えられるものほど、私たちの中に強く刻まれ、それはいつしか自分自身の信念や考え、感覚として自分の無意識に深く入り込んでいく。
自らが固く信じて疑わない見方、つまり私たちのまなざしが固定化した状態は「固定観念」あるいは、「偏見」と言い換えられる。
それが社会にまで広がったものを、私たちは「常識」と呼ぶ。

耳が痛い話ではあるが、逆に考えてみると、世の中を変えるのはそう簡単ではない。
しかし、自分のまなざしが固定化していることに気付くことができれば、そして、自分のまなざしを変えることができれば、世の中が変わると考えることができるかもしれない。

自分のまなざしを変えるには

自分のまなざしを変えるといっても、ではどのような方法があるのか?
そこまでいうなら、方法を教えて欲しいし、簡単な近道を教えてほしいと思ってしまう。
しかし、実践書のように本書には簡単な答えは用意されていない。
その中で、私が感じたこととしたならば
ひとつには、自分の固定化したまなざしに気付くこと。
そして、そのまなざしの固定化するに至った元となるものにしっかり向き合うこと。
最後に、自分のまなざしに革命を起こし続けることを決めること。
見たくないかもしれないが、今の自分が見ている世の中は、自分の見方に原因があると知ることもその一つである。

この激変する社会の不安の中で私たちは無力を決め込み、何かを誰かのせいにして、自分は助けてもらうべき被害者であるという態度を取ってしまう。
私たちはいつも自分の外側になる何かを指摘し糾弾し、それを修正することで、そこに至った原因や責任は自分にはないという態度を取ってしまう。
私たちが何もできず社会を変えることができないのは、これまで自分を無力であると思い込むことを積み重ねてきたからである。弱い存在であることを装い、いつか何かや誰かのせいにしながら自らで自らを救うことを怠ってきたのではないだろうか。
いつでも自分を変えるチャンスは開かれているのに、いつでもそれを手放す。
そうやって変わることを諦めてきた結果を今受け取っているとは考えられないだろうか。

そして自分にしっかり向き合うこと。自分自身に真摯にまなざしを向けること。

私たちは自分自身に対してこそまなざしを向けなくてはならない。それは見たい自分だけに目を向けることではないし、見たくない自分ばかりみて嘆くことでもない。自らに対してありのままのまなざしを向けることである。
自分が何に囚われているのか。自分が何を愛し、何を憎み、何を信じているのか。
自分に何が見えておらず、自分が何を見たがっているのか。そして、自分は何を見たくないのか。

安易な方法論などを求めて外に答えを求めても見つからないだろう。

私たちに本当に必要なのは、誰かの救済を待つことでも、誰かを正すことでもない。
自らが自らを診断し、自らの内にある問題の原因を突き止め治療し、自らを救済することなのである。

そして、自分自身が革命家であり続けること。

世界を変革させる代わりに、私たちがまず自分を変革すること。
自分のまなざしに革命を起こすこと。
私たち自らがそれぞれ自分のまなざしの革命家になること。

最後に

今回は、本書の最初の1章「常識」と最後の9章「解放」を中心に響いたところを抜粋した。
しかし、その間にある「感染」「平和」「情報」「広告」「貨幣」「管理」「交流」の章を一つ一つ読み進めると更に「まなざし」について掘り下げられ、世の中の見方を変える力になるだろう。
ぜひ、多くの方に手に取って読んでもらいたい本であり、きっと一人でも多くの人にこの本が届くことによって、世の中の見方は良い方に姿形を変え続けるだろうことを願っている。
そして、そのためには、まず自分自身が「まなざしの革命家」になろうと思う。
著者のハナムラチカヒロさんの作品で、あわせてこちらのお勧めですので、宜しければ、ご一読ください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?