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あのころを語ろう 第87回 川島悠太郎(北陸電力)

月刊誌『スポーツイベント・ハンドボール』の大好評連載『あのころを語ろう』第87回(2020年10月号掲載)を無料配信。今回登場するのは北陸電力の川島悠太郎選手。独自の道を進み、日本代表候補にもなった若きアタッカーに「あのころ」を語ってもらいました。
※無料で全文を読むことができますが、もしよろしければサポートをお願いいたします。
かわしま・ゆうたろう/1994年8月8日生まれ、福井県出身/183cm/82kg/右利き/BP/木田ブルーロケッツ2000(福井、現・北陸電力ジュニアブルーロケッツ)→明倫中(福井)→福井商高(福井)→早大→北陸電力
小学2年生からハンドボールを始め、明倫中(福井)では2度の日本一に。福井商高(福井)を経て進学した早大では主力として活躍し、多彩なシュートで何度もゴールネットを揺らした。大学卒業後は北陸電力に加入、日本代表合宿にも招集された。肩のケガで昨シーズンを棒に振ったが、復帰した今季は北電の主力として大車輪の働きぶりを見せた。17試合(全20試合)に出場して111得点をあげ、フィールド得点賞(103得点)を受賞した。

小学生のころから点を取ってなんぼ

父が野球をしていたこともあり、僕も野球をやるつもりでしたが、ハンドボール経験者の母の影響や、ハンドボールをしていた姉の練習の迎えについていくうちに、自然とハンドボールを始めていました。小学2年生のころですね。

もともと、野球やサッカーなど球技で遊ぶことが好きだったので、ハンドボールもすごく楽しい印象でした。

僕が入団した木田ブルーロケッツ2000(福井、当時。現・北陸電力ジュニアブルーロケッツ)では、今季から北陸電力を指揮する田中秀昭さんが指導してくれました。

田中さんがお手本としてシュート、フェイント、パスなどさまざまなプレーを見せてくれ、そうしたプレーを休憩中や練習後にとにかくやってみて、うまくできたものを覚えていきました。昔からボールを投げることが好きで、こうしたOFのトレーニングばかりしていました。当時から点を取ってなんぼ、くらいの姿勢です。

DFですか? 今もそうですが、このころからDFが嫌いでした(笑)。身長は6年生のころには160cm台と大きい方でしたが、身体が強くなくて。相手と接触すると痛いからイヤでした。

だから身体を当てなくても守れる技術、感覚を小学生のころに身につけたのかもしれません。田中さんからもパスカット、ドリブルカットの方法を教えてもらい、とくに2人1組でお互いにドリブルしながらカットを狙う練習が好きでした。そこでカットできる間合いなどの感覚を覚えたことで、OFにも活かせたと思います。

試合には4年生のころから出られるようになり、5年生では全国小学生大会(全小)に出場してベスト8、6年生の時は全小3位になりました。

5年生になるまでは、県内の大会でもあまり勝てず、ただただハンドボールを楽しくしていただけでしたが、全国の舞台で勝ち上がることで試合に勝つおもしろさを知りました。

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小学生時代からゴールゲッターとして活躍。
試合に勝つおもしろさを知った時期でもあった

日本一のあとに味わった挫折

同級生とともに、木田の先輩もいる明倫中(福井)に進みました。顧問の立山泰伸先生はもともと陸上が専門で、練習内容は走りが中心。ひたすら走ったのはいい思い出です。

練習中、ミスをしたら1周5kmほどの外周を走り、ボールを使わずに終わる日も。学校内のどの部活よりも走っていたと思います(笑)。

技術的なことは、外部コーチとして引き続き関わってくれた田中さんに教えてもらいました。新しいシュートテクニックなどを身につけましたが、DFは相変わらず嫌いでした(笑)。

1年の春中(春の全国中学生選手権大会)、2年の全中(全国中学校大会)で優勝しましたが、うれしいよりもビックリという気持ちが大きかったです。

というのも、当時の明倫中は創部して間もないチームで(川島が入学時点で3年目)、僕らが小学生時代にいい成績を残したとはいえ、全国で勝てるイメージがありませんでした。

県外の強いチームと練習試合があまりできなかったこともあり、全国にどんなチームがいるのか、どんな選手がいるのかもわからない状態。だから全国大会では目の前の1試合1試合に集中して臨みました。その結果の日本一です。

春中では得点王(6試合57得点)になりましたが、自分の役割である得点を決めることに徹しただけです。

ですが、中学に進んだころはボールの大きさに慣れず、周囲も身体が大きくなり、コンタクトの強さも小学生時代とは大違い。ゴールもそれまでよりも小さく見えてしまい、スランプ気味の苦しい時期でした。

両面テープにも慣れず、結局つけないままプレーしました。手が大きかったことで両面テープがなくてもボールをつかめましたが、汗で滑ることも。そのたびに田中さんに怒られましたね。

先輩たちが引退して僕たちの代になり、当然のように「自分たちも日本一へ!」と意気込んでいましたが、春中ではまさかの初戦敗退。全員が調子に乗っていたというか、心のどこかに「勝てる」というおごりがあったと今は思います。負けたあと、みんなショックでなにも話せないほどで、本当に悔しかったですね。

大会後はイチからやり直そうと、走り込みから再開しました。そして夏の全中は準優勝。練習試合などを繰り返していくうちに、徐々にメンバー全員がレベルアップしたのが要因だと感じています。

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明倫中では抜群の得点感覚を活かして2度の日本一に貢献。
関係者からの評価も高いチームだった

高い壁に挑み続けた高校時代

高校進学を考えた際、ハンドボールに集中することもいいことですが、ほかのことをもっと知りたいと思っていました。実際、高校でほかのスポーツを始めようと考えたほどです。

明倫中の先輩から話を聞き、監督だった堀部昌宏先生、外部コーチだった白倉悟さん(元・トヨタ紡織九州監督)が熱心に声をかけてくれたこともあり、福井商高(福井)でハンドボールを続けることを決めました。難しいと思っていましたが、何度も日本一になっていた北陸高(福井)を倒して全国大会へ出たいと考えていました。

福井商高では、同級生が10人いましたが、中学校からの経験者は僕を含めてわずか3人。上手な人ばかりいた小学校、中学校の環境とは大きく違い、当たり前と思っていたパスキャッチもままならない状況にすごくイライラしてしまって。北陸高を倒して全国に出たい僕と、ただ楽しくハンドボールをしたいという周りの意識の違いもあり、やめてしまう人もいました。

白倉さんが外部コーチでいるとはいえ、毎日練習に来られないから僕が技術的なことをチームメイトに教えることもありました。教えることは得意でなかったので、どうやっていいのかわからず大変でした。

やるなら勝ちたいと思ってくれる
同級生の存在が助けに

ですが、やるなら勝ちたいと思ってくれる同級生がいてくれたことが大きかったです。みんなといっしょに遊んだり、ご飯を食べたりして、そこで自分のハンドボールに対する思いを伝えていったことで徐々にチームとしてまとまっていきました。家族ぐるみでつき合いがあった1つ年下の藤坂知輝(北電)が来てくれたのも助けになりました。

高校では3年の夏の北信越大会で準優勝できたことが一番の思い出です。僕らの代になった最初の県大会では1回戦負け。こんなはずじゃないと、白倉さんに怒られました。

その翌日、白倉さんは来ないだろうと思い、ウォーミングアップのサッカーをずっと続けてしまいました。コートの近くに川があり、よく見ると反対側には見覚えのある車が。白倉さんの車でした。僕らがサッカーしかしていなかったところをずっと見ていたんです。

そこで怒られはしませんでしたが、次の日からもっとしっかりしないといけないと、全員の意識が変わりました。これが北信越大会準優勝につながったと思っています。目標にしていた全国大会出場はかないませんでしたが、難しいと入学前から理解していたことなので、後悔はありません。

もう一度トップレベルの環境で、
と覚悟を決めて早大へ

大学進学の際もハンドボールを続けるか悩み、何度も両親と話し合いました。もう一度、トップレベルの環境でやりたいと覚悟を決めて、声をかけてもらった早大に進みました。

当時コーチだった大城章さん(現・ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング監督)が熱心に指導してくれ、岩下裕太さん(紡織)、東江雄斗さん(大同特殊鋼)ら先輩たちからもいろいろなことを教わりました。

大学卒業後に地元・福井を拠点とする北電に加わったのは、地元国体(2018年)で育ててくれた方々にプレーを見てもらいたいという思いがあったからです。

また、日本代表の強化合宿に参加させてもったのもありがたいことでした(18年10月など)。海外遠征にも帯同させてもらい、世界トップレベルとの戦いを経験できたのは大きかったし、ほかのチームの選手と話せたことも刺激になりました。

トップリーグでプレーするならいつかは日本代表に入りたいと考えていました。最近はケガもあったので招集されていませんが、東京オリンピックのメンバーに選ばれるようなら、万全の状態で臨みたいです。

こうして振り返ってみると、カテゴリーが上がるたびに、競技を続けるかどうかを考え、すごく悩んでいました。そのたびにハンドボールを続けると強く決心したからこそ、ここまでできたのかもしれません。

もし、僕と同じように進学で悩んでいる学生がいたら、自分が一番楽しめる環境を選んでほしいです。そしてやるからには全力で取り組んでください。

日本リーグ開幕が迫り、小・中で教えてくれた田中さんが監督になったので始まるのが楽しみです(取材日は20年8月20日)。

昨シーズンは、肩のケガもありなかなか思うようなプレーができず、もどかしい思いでいっぱいでした。ようやくプレーができるようになりましたが、コロナ禍で、ハンドボール自体ができない状況に。

すでに発表されているように、リーグ開幕まで1週間と迫ってきたところで、北電の試合の延期が決定しました(最終的に全試合を消化し切れず、2試合が不戦敗となった)。

先の見えない、厳しい状況がまだまだ続きますが、再開した時にはファンのみなさんに元気なプレーを見せられるようにがんばります。

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【スポーツイベント・ハンドボール編集部】

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