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#12 フェアプレーを考える

最近、フェアプレーとは?という議論が巷を賑わしています。例の事件に関しては真実を知らない身で、どうの言うこともできないのですが、まずスポーツで、あってはならない事であるのは事実。一方で話題にもなったフェアプレー精神というものは一体どんなものなのか。選手にとってどんなものなのか。スポーツにとってどうあるべきものなのか。
これから日本はどうやってフェアプレー精神を育てていくべきなのか。
今回のテーマはフェアプレーについて、です。


やっちまうつもりで行け、という指示

まず自分が現役の頃を振り返ってみます。中学の時、試合前に先生からこう言われたことがあります。

「やっちまうつもりで行け」

ようは気持ちで負けるな。という事だったんだろうと今になってみると思います。

またある試合ではタイムアウト時にこう言われました。

「何もせずにやられるくらいなら、ファールするくらいの勢いでいけ」

これも凄い指示ですよね、今思えば。確かこの時はチンチンにやられてて、みんな戦意喪失してたんじゃないかな。その時に喝を入れる意味で出した指示だったんですかね。
と、わたしが現役時代には、今となれば大問題な指示が結構ベンチで飛び交っていました。ただし試合自体、白熱することはあっても荒れた事はなかったと思います。


闘争心とフェアプレー

わたしが受けた物凄い指示の数々。共通することは、すべて闘争心を出せ、という意味あいのものだった気がします。
スポーツとフェアプレーが切っては切れない関係であるのと同じく、闘争心、ファイティングスピリッツも大事な要素。
学生の頃はもとより、プロの世界ではそれが観客を感動させる要素にもなるからです。
もちろん、指示自体、余りにも酷ければ問題だし、それは違うと思います。しかし、波風を立てない言い回しで、選手を奮い立たせるのは難しい。指導者の熱い気持ちが伝わってこそ、選手はテンションを上げることができるのです。


リスペクトしながら殴る

さて、問題のフェアプレーですが、わたしがもっともフェアプレーを感じるスポーツ、それはボクシングです。
試合前、ぶっ殺すくらいの勢いで相手を威嚇し、試合となれば倒れるまで殴り合う。
しかし、試合が終わると抱き合って健闘を讃え合う。ここにフェアプレーの真髄があると、いつも思っていました。
闘争心剥き出してぶつかり合うわけで、時にはルール違反をしてしまうこともある。だからこそ、審判がいるし、ルールがあるわけです。スポーツは選手や監督だけじゃなく、審判や運営も含めてはじめて成り立つというのは、そういう事だと思うのです。
もしルールも何もなく、ただ殴り合うだけではスポーツではない。
ボクシングは危険なスポーツだけに、選手たちのフェアプレー精神が、色濃くでる競技だと思います。同時にあの闘争心が正面からぶつかる様子もボクシングの魅力。
ボクシングにはそうした両面がよりわかりやすくあらわれます。


卑怯だからフェアじゃない、は違う

わたしは基本、ルールさえ守ればあとはなんだってありなのがスポーツだと思います。
日本ってどこか正々堂々と、という精神が強すぎて、それが勝つための作戦だったとしても、少しでも姑息な手段に感じると、卑怯だ!フェアじゃない!とヒステリックになる。
でも、本当にフェアじゃない状態っていうのはルールを守っていない状態。
逆に言えば、それ以外はないんじゃかいかとすら思います。


競技と相手をリスペクトする

と、色々、主観で書いてきましたが、結局フェアプレーとは、常に競技をリスペクトし、試合後に、相手をリスペクトする事だと思います。

試合中、熱くなる事だってあります。そこで、不意に違反することもある。それをファールというペナルティで裁くのがスポーツ。
でもこれくらい普通の事だと思います。

問題は競技をリスペクトしていないような行動をとったとき。今回の事件は、まさにこれだし、以前からあるドーピングもそう。こうした行為こそフェアプレーではない。これらは重く罰せられて当然です。

そして、相手。相手あっての自分、という事を試合後に少しでも考えることが出来れば、それは既にフェアプレーだと思います。
試合中に相手の事をそこまで考える事は難しい。でも終わった後に考えればいいと。

フェアプレーの精神に、何が違反しているのか。あまりにもフェアプレーに縛られていてはスポーツそのものの魅力が半減してしまう。

例えばタックルは一つの技術。
激しく相手を吹き飛ばすために必要。

では、あのタックルは、なぜいけなかったのか。

それを子供たちにきちんと伝えられるようになりたいと思います。

#コラム #スポーツ #フェアプレー #スポーツを文化に


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