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阿南駅周辺まちづくり パブコメ送信全文

 阿南市は阿南駅周辺まちづくり基本計画素案をとりまとめ公表。2023年9月5日まで市民から意見を募集している。以下の全文をPDFにして送信した。
 なお、パブコメはのちに個人情報を除いて公開されるものの、その際は簡略化される。

 PDFで拝見したい方は以下から。

送信文全文


1.阿南駅を本当にそこまで死守すべきか

 阿南市は、阿南駅を中心に据えたアプローチを、不可欠なものとして長らく堅持してきました。しかしながら、その戦略が実際に阿南市全体や県南部にとって有益なのか、この重要な観点を見直すべき時期が訪れているかもしれません。
 従来の方針を漠然とした惰性で追認するだけでは、未来志向の前向きな阿南市づくりとは言えません。阿南駅周辺の整備に携わる人々は原点に立ち返って、市近辺の交通の成り立ちを理解する必要があります。

1-1.      当初案は内陸コース

 徳島県の鉄道敷設に尽力した名西郡石井町の衆議院議員兼実業家、生田和平(明治10年生~昭和30年没)は、明治45年に「阿南鉄道株式会社」を設立しました。生田は同社の代表発起人かつ社長を務め、この鉄道会社は当時の徳島県において「阿波鉄道」と並ぶ2大私鉄となり、大正5年に小松島市中田駅から阿南市羽ノ浦町古庄駅の区間を開業しました(『阿波学会紀要第41号 総合学術調査報告 那賀川町』)。

 『新野町民史』によれば、この鉄道の当初の敷設計画は新野町馬場の新野駅を終点とし、長生村や桑野村からも出資を募っていたことから、古庄から新野までの間は中野島南島、長生、桑野を経由するコース(のちに「平地線案」とよばれるコース)を意図していたことが分かります。

 生田は阿南市と直接的な縁がない石井町の実業家であり、その阿南市外の客観的な視点から阿南市の鉄道コースに内陸部を選択した事実は軽視できません。

1-2.      内陸コースの10年後に沿海コース

 大正10年、新野町役場は関連町村によびかけ「阿陽鉄道期成同盟会創立大会」が開催されました。大正12年には、敷設免許申請書が県庁を通じて鉄道院に提出されました。この計画では、「阿陽鉄道株式会社」を新たに設立し、やはり阿南鉄道古庄駅から中野島、長生、桑野、新野馬場までを結ぶ「平地線案」が提案されました(『阿波学会紀要第41号』、『新野町民史』)。

 一方で、「阿陽鉄道」に対抗するために、大正11年には富岡町などが「富岡町鉄道敷設期成同盟会」を結成しました。この同盟会は、「沿海線案」として富岡、見能林、橘を経由するコースを提案し、その陳情と嘆願を行いました(『阿波学会紀要第41号』)。

 「平地線案」が初めて阿南鉄道として計画されたのは明治45年でした。一方、現在の阿南駅が位置する「沿海線案」が提唱されたのは大正11年であり、10年の期間が経過しています。
 阿南地域において沿岸部を経由する交通文化は歴史的には必ずしも中心的なものとはされていなかったことが示唆されます。

1-1.      誘致合戦中の各地区のスタンス

 こうしたなか政府が官営鉄道の「四国循環鉄道 阿土海岸線」の実現に動き出したことを受け、昭和2年に阿陽鉄道、富岡町鉄道敷設期成同盟会、阿南鉄道の3つの私鉄組織は新野町平等寺で「阿土海岸線期成同盟会」を結成し、阿土海岸線の誘致活動に一丸となることにしました。これにより、阿陽鉄道と富岡町鉄道敷設期成同盟会は解散しました。しかし、引き続き阿土海岸線のルートを巡り「平地線案」と「沿海線案」の誘致合戦は続きました。

 最終的に政府は、現行の牟岐線のコースを採用することを決定しました。その決定には「中島(平島村)出身で鉄道省高官であった山田隆二(略)の大きな影響力があったといわれている」(『阿波学会紀要第41号』)とされ、政治的な要因が示唆されています。

阿南市内の各地区が阿南駅をどのように捉えているかを判断するには、かつて「平地線案」と「沿海線案」のどちらを支持していたかを振り返ることが参考になります。

 誘致合戦の期間中、昭和7年には長生、桑野、新野の3町が鉄道大臣に対し「平地線案」の導入を求める陳情を行いました(『新野町民史』)。そして、昭和8年には長生と宝田も鉄道省などに対し「平地線案」の導入を要請しています(『阿波学会紀要第41号』)。また、羽ノ浦は起点を羽ノ浦駅ではなく古庄駅にしてほしいと要望していました(『阿波の交通 下』)。

 この事実を現在の地区別で見ると、「平地線案」を支持した地区は、羽ノ浦、中野島、宝田、長生、桑野、新野、そして沿線より西側の大野、加茂谷を加えた8地区であると分かります。一方で「沿海線案」を望んだ地区は「沿海線案」沿線の那賀川、横見、富岡、見能林、橘、福井、椿の7地区と理解できます(表1)。

 したがって、これらの阿南市内で比較的に広大な面積を擁す、市内の半分以上の地区は、「沿海線案」に位置する阿南駅を本質的に必要としておらず、つまりは、わが市のターミナルやハブ機能が必ずしも現在の阿南駅の場所に所在しなければならない必要性がなく、ひいては阿南駅周辺地区を阿南市の中心拠点とみなす考え方にも、タテマエ以上の現実的な理解は持っていない可能性が高いことを示唆していると言えます。

 なお、今後の高速道路の開通後には、橘、福井、椿の3地区は徳島市への連絡が鉄道よりも高速道路の利用が優位となり、「平地線案」支持側に移る可能性も考えられます。

1-4. 誘致合戦中の県南部のスタンス

 さらに客観的に阿南市以外の県南部のスタンスについてみると、『新野町民史』によれば、昭和4年には新野町の町長や町議たちが「建設予定線の新野通過についての陳情協力をえんがため、海部郡の三岐田、日和佐、牟岐、浅川、川東、川西、鞆奥の各町村を歴訪して同意を得ている」としています。
 これから海部郡にとって、徳島市へのアクセスが短縮される「平地線案」が好意的に受け入れられていたことが分かります。さらに、那賀町も「平地線案」を支持しているとみなすのが妥当です(表1)。

 また、昭和7年には新野町が新野馬場への駅設置を求め、高知県代表と共に鉄道省や衆議院議長に対して陳情を行っています(『阿波学会紀要第41号』)。これは、徳島と高知を結ぶ路線ができるだけ短距離となる「平地線案」を、高知県としても理解していたことを示唆しています。

 これらの要因から、阿南駅は政治的な要因によってなかば強引に生まれた性格が強い駅と言え、阿南市または県南部全体の移動実態や住民ニーズから自然発生的に望まれ、支持されてきた圏域の中心駅という視点を採ることは難しいでしょう。

1-5. 鉄道以前も内陸が主体

 『徳島県史 第5巻』によれば、徳島県は吉野川流域の東西交通が早くから鉄道によって行われましたが、徳島~阿南の南北交通は乗用馬車がその役割を果たしていたとされます。
 明治時代の終わり頃には徳島から羽ノ浦までの間に乗合馬車が運行され、さらに大正時代初めには桑野まで路線が延長されました。同書にはそれ以外の乗合馬車路線の記載は見られません。乗合馬車の時代において阿南市や県南部にとっては 徳島~羽ノ浦~桑野 の交通が主体であったことが読み取れます。

 『阿波の交通 上』によれば、織田信長は安土城から京の都までの36丁を1里として、1里ごとの路傍に松を植えさせた。徳川家康は東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道の5街道を定めた。

 同様に阿波では、徳島城を中心として各方面に向かう淡路街道、伊予街道、川北街道、土佐街道、讃岐街道の「阿波5街道」が定められ(図2)、これの36町ごとに松を植えたものが「一里松」とされている。

 阿南市においては土佐街道立江~南島~桑野~福井~田井 のコースをとっています。また一里松の所在地は、小松島市田野、羽ノ浦町宮倉、上中町岡、長生町明谷、桑野町、福井町下福井動々原、福井町小野 とされ、なかでも上中町岡の一里松は「藩政時代土佐本道の要衝で伝馬所も置かれていた」(『阿波の交通 上』)と重視されていた。

 さらに阿波独特の制度として主要街道に位置する8ヶ所の寺院を「駅路寺」と指定しましたが、土佐街道では桑野町の梅谷寺と日和佐の打越寺の2ヶ所が指定されている。

 江戸時代の藩政の視点でみると、やはり「平地線案」に沿ったかたちの交通を主体としていたのは明らかです。このように歴史をひもとくと、県南部の地理特性においては阿南駅の位置が必ずしも絶対的に中心拠点として死守せねばならないほどのものではないことは明らかです。

2. 阿南駅の需要は本当に自然発生なのか

 2019年(令和元年)6月の市議会で、当時の岩浅市長は阿南駅が学生の利用が多いことを強調しました。「阿南駅は県内で徳島駅に次いで乗降客が多い。これは学生が多いんです。朝の8時10分過ぎに富岡のまちを歩きますと、自転車に乗って富岡西高校から阿南光高校、そして西出口に行きますと、富岡東高校へ男女の生徒がずうっと長い列をつくって、まさに学生のまちなんです」と述べました。

 しかしながら、学生の多さから阿南駅が重要であると主張することは本質的には誤りです。ほんとうに重要で代わりの効かない駅であると言えるのは、その地域に根ざした動かしがたい需要、つまり大規模な民間産業が存在したり、主要な観光地があったりする場合であろう。

 たとえば、仮に前述の牟岐線の当初案である長生町経由の「平地線案」が実現していて、日亜化学工業の本社近くに上中駅があれば、その駅は代わりの効かない重要な駅であると言えるでしょう。

 しかし、学校などの公共施設は行政の判断によって容易に場所を移転させることができ、その立地場所には代替案が存在します。学校や公共施設は行政自身が方針を決めれば阿南市内のどの駅周辺に移動させてもなんら問題がないものです。したがって、駅の周りに公共施設にちなむ需要があるからといって、阿南駅が重要であると行政が主張するのは詭弁です。

 実際に阿南地域では、新野高校と阿南工業高校が統合して阿南光高校が設立された際に、駅に近い新野高校ではなく、駅から遠い阿南工業高校をわざわざ本校として選び、そのとき南部住民からは反対運動が起こっています(図3)。

 この決定は行政が恣意的に新野駅の利用者数を減らし、阿南駅の学生利用を増やしたとみることもできます。これは行政による一種のマッチポンプと言え、すなわち阿南駅がしらじらしく自然発生的に重要なものと扱うのは説得力を持ちません。

 富岡地区は元来、那賀町や勝浦郡など各方面への分岐点などといった交通の要衝でもなく、現在の阿南駅のポジションは市内のどの駅であっても形成できる程度のものと考えます。

 まして現代主要な光産業は「平地線案」側の文明であり、その恩恵を「沿海線案」側の成長につなげる構造は不健全だ。この点からもやはり阿南駅は純粋な民間ニーズではなく政治・行政的な効果で成立している側面が強い駅と言える。

3. 未来志向の前向きな考え方をしていない

 県南部における鉄道の利用減少の理由は、県南地域の住民が車を利用し、やはり牟岐線の当初案「平地線案」に沿った長生地区を経由することに利点を感じているからです。更に、阿南市での高速道路の開通はこの傾向を一層促進します。

 徳島駅から阿南駅までの普通列車の平均所要時間は47分ですが、高速道路を利用すると徳島沖洲ICから阿南ICまでの所要時間は14分、桑野ICまで20分、新野ICまで24分、薬王寺すぐ手前の美波町日和佐出入口まで37分と、驚くべき速さで移動できます(※図4)。
 阿南駅の乗降客数は2千人強ですが、対照的に国が予測した桑野道路の交通量は1万4千台に達します。

 そもそも高速道路を考慮せずとも非常に厳しい状況を指摘する新聞投稿もみられ(図5)、この状況で阿南駅に依存した事業を進めるのは見通しが甘いと言わざるを得ない。
 富岡をターミナルやハブ、中心拠点にしようとする考え方は時代錯誤であり、もはや現実的ではないと言えます。阿南駅周辺を整備する必要はなく、この事業は撤廃すべきである。

4. 長生短絡線を建設せよ

 牟岐線を維持し競争力を強化するために真に必要なことは、阿南駅周辺を整備することではありません。かつての「平地線案」と同様の、羽ノ浦~古庄~南島~日亜化学本社前~長生~桑野 に短絡線を建設しそちらを牟岐線本線とし、阿南駅はその短絡線を含む「平地線案」コース内に移転すべきです。さらに、現行の 羽ノ浦~阿南~桑野 はJRから経営分離して沿線地区の負担によって維持すべきだと考えます。

 それによって、現在の取りこぼしている徳島市から巨大企業への通勤需要に対応できるほか、海部郡など県南部から徳島市への短絡路ともなり、牟岐線の全体的な底上げが期待できます。また、学生に限られ先細ることが明白な現行の阿南駅よりも多い乗降客数が期待できるでしょう。そもそも学校や公共施設なども「平地線案」の駅周辺に移転すべきなのです。
 
 阿南市のまちづくり方針は根本的に転換し、富岡にこだわる内向きの考え方を超えて、すなわち都市計画法や「阿南市総合計画」などのいかなる上位計画であっても神聖視せず見直し、高速道路に対抗するのではなく受け入れて前向きに鉄道と共存し、成長効果を最大化できることが明らかなインターチェンジ周辺や、新しい牟岐線「平地線案」の駅周辺に、新たな阿南市の新都心を形成すべきではないでしょうか。
 
 それが阿南市全体、県南部住民全体にとっての理想に近い交通の形ではないでしょうか。現行の「沿海線案」コース(羽ノ浦~阿南~桑野)のままでは一部地域のためにしかなっておらず、全体的には不幸をもたらせています。阿南市は成長発展すべきであるが、それが富岡付近でなければならない理由はどこにもないことを肝に銘じなければなりません。

5. 道の駅凍結は、後ろ向きの極致

 阿南市は2020年2月に福井道路の新野インターチェンジ付近で予定されていた新しい「道の駅」の整備計画を、「採算性が懸念されるため」として凍結しました。表原立磨市長は「将来的に市の財政負担が生じないよう、計画を見直したい」と当時の新聞記事で述べています(※図6)。

 しかしながら、阿南駅の乗降客数は2千人強ですが、国が予測した阿南安芸自動車道・福井道路の交通量は1万668台です(平成26年四国地方整備局・一般国道55号福井道路 事業再評価より)。常識的に考えると、新野「道の駅」に関連する事業よりも、阿南駅に関わる取り組みのほうが将来的な懸念要因は大きいと思われます。
 
 高速道路が通過する小松島、美波、牟岐、海陽のいずれも、インターチェンジに対応した町の中心機能の移転や振興策、防災事業を進め、鳴門や板野、美馬もICに対応した道の駅を設置しました。阿波市はICが1つしかなかったが、2つ目のスマートICを要望し、実現させ、その近傍に市役所の新庁舎を移転しました。

 阿南市は逆に、いくつものICが設置される恵まれた状況であるにもかかわらず、それを活かす対応策が一つ見えてきたかと思えば整理対象にした。その一方で、阿南市内で高速道路に最も遠いレベルの地区である富岡の駅の振興に執着するなど、あきらかに方向性がずれており、世の中全体の流れが見えているのかと疑問を感じる。

6.図書館を切り離せ

 『阿南駅周辺まちづくり基本計画(素案)』およびこれまでに策定された上位計画は、図書館をまちづくりの付属品として見なしているように思え、図書館の本質的な役割を曖昧にしています。純粋な図書サービスの提供や文化行政の適切な成長を損なう計画と感じられます。駅周辺整備と図書館は完全に切り離すべきです。

 まるで既得権のように、富岡地区に図書館や市の中心拠点が存在することが当然の前提であるかのようにしている方針そのものが疑問です。


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