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寸分の狂い無き散在 / 『たぶん悪魔が』

こんばんは。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

わたくしは昨日、早稲田松竹で上映中の「ロベール・ブレッソン特集」に行って参りました。

私が鑑賞したのは、朝早い回でしたので座席にも少し余裕があったのですが、違う回で鑑賞した友人によりますと、立ち見で鑑賞している人もいたようで、日本の映画文化に少しばかり明るい光を感じました。

本上映会は、『湖のランスロ』と『たぶん悪魔が』の2本立てでしたが、今回の記事は『たぶん悪魔が』について綴りたいと思います。





私たちが生きる世界とは、本当に美しいのでしょうか。

人は死に取り憑かれながら生きていると思います。
その意識の大小は個々人によって様々でしょうが、全ての感情の根源にあるのは死への意識だと思っています。
そして私は、その"死への意識"を極度に強く感じながら生きている人種だと思っています。

主人公シャルルの死を冒頭で伝えてから始まる本作。ここで既に、『たぶん悪魔が』という1本の映画が終末論の全てを表象しています。
終わりに向かって進む。人々は何故、死ぬしかない人生にこれほどまで意義を見出しているのでしょうか。私には到底理解出来ません。

ブレッソンのショットの精密さとは、映画史的に見ても他に類を見ないほどですが、美しさとはもはや形容できないほどのその寸分の狂い無き完璧な散在は、私たちの恐怖の念を抱かせます。


トリュフォーの言った「ブレッソン映画とは、見せるよりも見せない魅力だ。」という言葉のように、美しさが美しさから離れてまた美しい、美しく無いから美しい、そのような心を私はブレッソンの映画に見出しました。

電車に乗りながら思考に耽ると、突如涙が溢れ出してしまい駅のホームで過呼吸になる程、泣き崩れてしまうことがあります。失調的な心身を生まれながら抱えている私は、ペシミティックな思考に苦しめられここまで生きてきましたが、そんな自分にどこか安心していることも自覚しています。幸福だととても不安で、苦しいとその苦しさに安心します。


美しく無いから美しい。


シャルルは、あれほどまで自殺の念に取り憑かれながら生きていたのに、彼の最後とは、恐らく以前より用意していた締めくくりに相応しい言葉の途中で遮られ、なんとも不恰好なものでした。
やはり、美しく無いから美しい。
そう思いました。




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ありがとうございました。

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