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「旅をする木」を読んで

星野道夫氏の名はずいぶん昔のこと、本屋で「星野道夫の仕事」という写真集を見かけたことで知りました。アラスカのような寒いところで写真を撮る。ぱらぱらとページをめくり、眺める目に飛び込んでくる別世界に圧倒されたものです。

星野氏が撮影途中で熊に襲われて死亡したというニュースをその後で知り、大自然で生きた人生の幕引きを感じていました。

あれから26年、「旅をする木」を手に取り読んでみて、星野氏が素晴らしいネイチャーフォトを撮影する写真家だけではなく、冒険家であり、素晴らしい随筆を多くのこされたのだと知りました。

さらに本を読んでいくうちに分かったこと。星野氏はアラスカに住み、結婚し根を下ろしたひとりの日本人として現地で温かく受け入れられました。自然とともに暮らすアラスカの人たちとの交流や、他の撮影地を回ったり展示会を開催することで世界の人たちとも親交の多かった人格者でもあったのです。

星野氏は先人の遺した遺産や歴史を次代に伝える役割もまた、こうした多くの随筆執筆により、担ったのではないでしょうか。

アラスカといえば極寒の地、多くの自然に野生動物。エスキモーやインディアンなどの先住民族。ブッシュパイロット。オーロラ。オールドクロウ。

イメージしたそれらをリアルに、まるで映像を見せてもらっているかのような描写は、星野氏を定住する決意に至らせたアラスカの魅力を美しい文章でつづり、ありありと、私たちに迫ってきます。

星野氏が紹介するアラスカをモチーフにした自然、人生、出会い、命についての考察。それらはまた、読むことで、私たちの見聞きしていた世界を想起させ、さらなる私の考察を呼び起こしてゆくのでした。

たとえばオーロラ。科学館でオーロラを発生させる模型を見たことがあり、オーロラとは地球にきた太陽風が地球上の大気中の原子とぶつかって発光する現象。オーロラにふれた章を読んでいて、まるで宇宙、太陽からのたよりを、地球上から、人の目線で見ていたことになり、その写真なのだと。

たとえばアラスカの冬、氷点下50度の世界。日本の気温では想像できません。ドライアイスにバラを入れておいて、手でほぐすとバラの花びらがぱらぱらと崩れ落ちる実験を昔したことを思い出し、そのような場所で人が生活をしているのかと。

自分が見聞きしてきた世界と、生前出会うことのなかった星野氏が見聞きしてきた世界。

それらは一見別物にみえて、どこかでかすかな糸のようにつながり、自分がこれから生きてゆく世界もまた、発見と考察の連続によって深まり拡がってゆくのだと、この本を読んでいて感じるのです。

冷暖房の完備した家に住み、整備されたアスファルトの道路を歩く。空気を吸っているだけでずっと支払わなければならないお金を、自分がやりたかった仕事でも生業でもない手段で稼ぎ、一生という時間を、誰の記憶からも忘れ去られて終えてゆく。

そんな生活の外にさらに広い世界があること、命の本質とはそんな日々とまた別のところにあることを教えてくれます。

旅をする木。この本のなかにある同名のこの章は「北国の動物たち」という本にあるのです。

形あるものがそのままの形でとどまり続けることなど到底できません。旅をする木とは、トウヒの木。木となり、流木となり、海岸に打ち上げられ、暖炉で燃やされ、トウヒの種であったそれは、大気に還ってゆく。

途中で様々な野生動物と出会い、トウヒの木の存在は野生動物たちの、限られた時間を生きる命のひとときと触れ合う。星野氏はこの「旅をする木」の話を通してアラスカへの憧れを抱いたそうです。

日々の営みの中でたえまなく消えてゆく時間と出来事は、消費されてゆくものではなくて、常に姿形を変えながら、他の人生と出会ったり別れたりを繰り返し、流れ進んで行く人生そのもの。

アラスカに行くことも、オーロラを見ることもかないませんが、この本を読んで、星野氏のまるで誰かにあてた書簡のような随筆で、アラスカという大自然とともに生きる素晴らしさを追体験出来ました。

生きる歓びに溢れた世界が同じ空の下にあることを感じながら、抗えない日々をていねいに、謙虚で、静かでやさしい気持ちで送ることが出来たらと、祈りのような思いを抱いたのです。


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