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『乃木坂46シングル曲が物語る"今"』その3(命~今誰まで)

6th~10thまでは、様々な理由でのセンター選出、そしてその事(そのメンバー)について様々な角度からの曲への投影が為されてきた。

それを経て11thからは、乃木坂46にとっても重要な2015年に入る。2015年は、以前別のnoteにも書いたが、乃木坂的には「総括の年」。これまでの活動、それによって得たものを集約して一点に突き進む1年だった。

「総括」の要素は、もちろんシングル曲からも伺える。11th~13thはそんな観点で見ていきたい。

命は美しい

これまでも「命」「生きる」という事柄に対して触れる楽曲は、少なからずあった。それらは度々、答えには辿り着かず疑問符を残すことが多かったように思う。

狼に口笛を

そうなんのためだろう
この命 その意味は

心の薬

何のために生きるの?
何のための命

生まれたままで

問題なのはあまりに長い命の残り

しかしこの『命は美しい』では、その疑問符に一つの答えを出した。そして、答えを出すだけに留まらなかった。

この曲を、彼女達自身と紐づけて考えるならば、頻繁に現れる「命」「生きる」という言葉は、まさに「彼女達がアイドルとして活動すること」そのものだ。それを踏まえると、「命は美しい」という言葉は、その刹那性の賛美である。

しかし、単に「この曲のテーマは刹那性の賛美だ」「アイドル活動の讃歌である」とは言えない。この解釈は、あくまで「彼女達を曲の主人公とするならば、」という前提があってのものだからだ。

彼女達は、聴き手に対して、楽曲を通して常に「伝える」ということをする。それは何も、歌詞をまま歌うことだけではない。今回は、凍える環境に身を置いて、これまでと比べ遥かに難易度の高いダンスを繰り広げ、肉体を酷使する、魂をすり減らす姿を見せつける。硬質な印象を受ける冷たいピアノの旋律も、その姿を巧みに演出する。

その姿は「アイドル活動に心血を注いでいること」の表現だ。それは、これまでに何度も浮上した疑問符への答えとして機能する。「(比喩としての)この短い人生、全うしてこそ」と、身を以て証明しているのだ。

それこそが、乃木坂46の謳う『命は美しい』である。

また同時に、聴き手の内にも浮かんでいる疑問符に対し、その答えを確かめる行為でもある。

「生まれたこと」「生きること」だけを闇雲に肯定するのはただの思考停止。「私達は、こうした」という姿を以て、「あなたは、どうする?」と投げかけている。

何のために生きてるか?
答え見つからなくたって
目の前にある真実は一つだけ
それがしあわせだと教えられるよりも
足元に咲いた花を見つけろ!

これは、誰かの背中を押す応援でも、支えになるメッセージでもない。彼女達は、〈何がきみのしあわせ?/ 何をしてよろこぶ?〉そう問いたいのだ。「生まれてしまったのならば、その上で何をする?」「何をすることで、その命を肯定する?」という、強烈な問いだ。

このメッセージは、例えば1stシングルで提示することはできなかっただろう。「私達は、こうした」という裏付けがまだ形成されていなかったからだ。その頃の彼女達は説得力を持っていなかった。

ということは、それを提示できたことがまた、彼女達個人、乃木坂46というグループの成長を示すことでもある。自分らの姿を以て他者に訴えかけることは、それが出来るだけの存在になった、それほどの活動を行ってきた、という証明だ。

本note冒頭(と、以前のnote)で使った「総括」という言葉、それは言い換えれば「(活動の)集大成」でもある。結成から数えて5年強、その間に積み重ねてきたものと、「積み重ねたものがある」という事実が、『命は美しい』に繋がった。それを提示するため、また証として残すため、2015年最初のシングルは『命は美しい』でなければならなかったのだ。

(2023年6月追記)

『命は美しい』は、8th『気づいたら片想い』9th『夏のFree&Easy』と並べた「西野七瀬3部作」の最後に位置する楽曲と言える。それぞれのセンターを務めた彼女の、どこか控えめながらいつの間にか気になってしまうその存在感を示す『気づいたら~』、アイドル活動を通して、あるいは大きなライブを迎えるにあたって"殻を破る"様をありありと肯定した『夏の~』に続く3曲目である。

特に当時、ネガティブな様子を見せることも少なくなかった西野は、いつしかセンターを多く務める文字通りの「顔」としてグループ内で存在感が大きくなり、またその身には自信や責任感を宿していった。その彼女を中心に〈命は美しい〉と謳うことは、その「変化」そのものの賛美である。「生きているということは、変化できること」とでも言わんばかりに〈命は美しい〉と謳っているのだと言える。

一人の主人公として西野七瀬の姿を投影した、人の「生きざま」そのものを尊びて肯定する楽曲。「"現在"の乃木坂46の到達点」として考えるならば、『命は美しい』をそのように受け止めることができるように思う。

太陽ノック

この曲の役割は言わずもがな「生駒、凱旋」。端的に言えば、AKB48とのグループ兼任を終え、乃木坂46一本に戻った彼女に"用意された席"と言える。
もちろんそれは、「お疲れさん!センター空けておきましたんで」という安直なご褒美のような意味ではなく、「持って帰ってきたものを見せてみろ」くらいの、力量を試されるようなポジションであったと思う。

そしてそれによって請け負うことになった、真夏の全国ツアーの座長という役目。それは、兼任が発表された直後(2014年4月1日公開)のインタビューでも汲み取れる、彼女のライブに対しての想いと、それを踏まえて経験して吸収したものを、満を持してぶつける場にもなった。

去年Zeppツアーをやって、このレベルでお客さんに見せたらダメだなって思い始めたのも大きくて。ライブを少しずつやるようになって改めて1人の表現者として、ライブは生ものであるのと同時に作品だと思うようになったんです。その作品をよりよいものにしたいし、そのためにダンスや歌の技術をどうしたら上げられるんだろうと考えた時に(中略)兼任の話がきたから「おお!」って。
音楽ナタリー ー 生駒里奈が本音で語るAKB兼任と乃木坂のこれからより引用)

上記インタビューでの「1人の表現者として、」という発言は、生駒が既に卒業した2019年現在に改めて見てみると非常に胸に来るものがあるが、やはりデビューから約1年強センターに立ち続けた彼女は、誰よりも観客の顔が見え、それを鏡に自分を鑑みることが出来る立場だったのだと思う。

卒業発表後(4月29日)に放送された『乃木坂工事中』にて、「卒業をハッキリと決めたのは、ツアーで『神宮ぅぅぅ!』と叫んだあの日」「全部の区切りが良かった」という発言があったが、1st~5thまでにおいて「乃木坂46の顔」を務めてきた彼女にとって、有終の美を飾るような立ち位置の楽曲になったのかもしれない。
(だからこそ、以降のシングルでは選抜3列目のポジションだったように思う。あれは"降格"なんてものではなく、やり切った彼女の"後日談"のような意味を持っていたのかもしれない。)

アニメやドラマの最終回の最後の場面で初期のオープニングテーマがかかる、一つのパターンとして愛されている演出があるが(『初森ベマーズ』でもそうだった!)、『太陽ノック』もそれに近いエモーションを纏っている。

そんな楽曲に乗せられている言葉が、〈空の下は自由だと言ってる〉〈何か始めるいいきっかけだ〉〈すべての人 照らしてくれるんだ〉〈その夢がかたちになるんだ〉なのは、出来過ぎなくらいのメッセージになっているんじゃないか。

それは、ある到達点に辿り着いた少女が新たなスタートを切る誰かに贈る言葉として、あまりにも説得力を持った、実に爽やかなエールだ。彼女の姿が今も瞼の裏に焼き付いていることこそが、その証拠である。

今、話したい誰かがいる

白石・西野による、Wセンターが初採用された『今、話したい誰かがいる』。曲が象徴する要素としては、根幹にはこの曲を主題歌としている映画『心が叫びたがってるんだ』からテーマが掬い取られている。

そのテーマは一言でまとめれば「対話」。MVでは、言葉を話せないキャラクターである西野と、それを取り巻く白石をはじめとした仲間達のストーリーが描かれたが、まさしくそういった「伝え合う」というテーマが落とし込まれていたように思う。

だからこそ、今回のフォーメーションが必要だった。それはWセンターに限らず、全体的に中心から線対称のようになった、所謂「シンメ」が重要視されたものだ。

ざっと挙げても、Wセンターを務める2人のエースをはじめ、「あしゅみな」とくくられる飛鳥・星野や、"お姉さんメンバー"衛藤・深川、同学年で"バラエティ担当"の高山・秋元がシンメになっている。さらに、「れかつき」の桜井若月や「さゆまり」の井上万理華が隣り合わせに配置されている。他のメンバーも含め、意味の感じるシンメ、あるいは隣同士のポジションになっているフォーメーションだ。

「2人一組」という組み方を前提に踏まえることで、1対1で行われる「対話」というテーマが浮き彫りになる。センターだけではなく、フォーメーション全体でテーマを描いているのだ。

さらに、実は「対話」というテーマは、同じくWセンターであるアンダー曲にも反映されているように思う。かつ、それは一義的なものではなく、表裏一体となる正反対の意味合いを持っている。

表題曲の『今、話したい~』が「対話の成立」であるなら、アンダー曲『嫉妬の権利』は「対話の不成立」。『今、話~』では上記の「伝え合う」に基づいた1←→1の相互の関係性が成り立っているのに対し、『嫉妬の~』はMVからもわかるように、常に1→1→1→1……という一方通行に終始している(それでいて〈今の私はウザい〉という表現にとどまり、第二者、第三者からの否定では無いところに救いがある)。

こうして、表題曲のみでは「対話」が成功する様を描き、アンダー曲では安易に肯定的に受け止めない、その難しさも含めて表現することを試行している。"出来る"と"出来ない"の両方を描くことで、「対話」そのものを描いているように思うのだ。

さらに、こういったグループ全体で(曲をまたいで)一つのテーマに挑んでいること自体に意味を感じる。それは、グループとしての一つの方向性を示した『君の名は希望』での「君がいるからこその僕」というテーマにも繋がるし、そのリフレインがまた、2015年の「総括」=「集大成」になぞらえた、時を経たからこそ出来た表現のように思う。

「映画のテーマソング」というグループとして大きな役目をきっかけに、グループ全体でテーマに挑む構図を意図的に作り上げたのではないだろうか。そしてそれはまさしく「集大成」として提示する作品としてふさわしい。

また「総括」=「集大成」という捉え方からフォーメーションを考えると、1stでは3列目であった西野が初期から通してエースであった白石と肩を並べたこと、初期はアンダーメンバーであった深川・衛藤がフロントを務めたこと、アンダー歴が長かった飛鳥やフロントからアンダーになった経験のある星野が福神になったこと等、歴史を感じる采配が見て取れる。

様々な角度から、「2015年最後のシングル」である意味が現れているシングル(=表題曲+アンダー曲)なのだ。

そうして、1年間を経てこれまでの活動を総括してきた乃木坂46。目標として掲げていた紅白歌合戦への出演も経験し、新たな年を迎えて、グループにも大きな変化が始まることになる……はず。

その4につづく。


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