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久保史緒里が紡ぐポエトリーラップの心地良さ

6月27日に幕を閉じた舞台『夜は短し歩けよ乙女』。主演を務めたのは、歌舞伎俳優・中村壱太郎かずたろうさん、そして我らが乃木坂46・久保史緒里ちゃん。

壱太郎さんが演じた「先輩」のことを語ろうと思えばいくらでも語れると先に断言しておくとして、ここではやはり「黒髪の乙女」を演じた久保史緒里ちゃんののことを取り上げたい。

なにはともあれ彼女が劇中で歌った歌がめちゃくちゃ良かったなと! 今回はそれを言いたい! 大千秋楽から1ヶ月も経ってる? そんなことは知らない!

夜短ウォーカーズは1ヶ月以上経った今なおロスをその足に引きずり、12月のBlu-ray発売までのカウントダウンを日々刻んでいる状態なわけですが、手元に届く日に思い馳せると、やはり久保ちゃんの歌声が鼓膜に蘇るわけです。

(Blu-ray・DVD情報)

今回脚本・演出を務められたヨーロッパ企画の上田うえだまことさんが、舞台の上演期間にラジオ番組『ガクのネ』に月間パーソナリティとして出演されていた。

そのうち東京千秋楽を終えた(頃に収録された)第4週の放送にて、「久保史緒里がキャスティングされたことが、音楽劇になった理由」であるという旨の発言をしていた。

「音楽劇はヨーロッパ企画としても挑戦したことがないのに、初にして曲数が凄いことになってた」ともゲスト出演した石田剛太さんにツッコまれていたが、これらの発言から、彼女の(歌の)存在がこの舞台の立ち上げの段階からウェイトを大きく占めていたことが察せられる。

その上で、卵が先か鶏が先か、彼女が度々歌った「ポエトリーラップ」の存在が、舞台『夜は短し歩けよ乙女』が成立するにあたって必然であったとすら言えるほどに、作品にとって重要な役割を担っていたように思う。

YouTubeチャンネル『ヨーロッパ企画のYou宇宙be』内で公開された稽古風景=メイキング動画の中の一つに、久保ちゃんが劇中歌『夜は短し歩けよ乙女』を歌う映像がある。

この曲や、この舞台で用いられた楽曲のほとんどが、一般的な"歌"ではなく「ポエトリーラップ」と呼ばれる手法が取られていた。

完全なメロディは持っていないが、"ラップ"と括るほどガチッとしたフロウとライムに落とし込まれてはおらず、かと言って"語り"と呼べない程にはリズミカル。定義が曖昧な部分もあるようだが、ともかく久保ちゃんの歌うコレ↑は「ポエトリーラップ」と呼んで間違いなさそうである。

これは、舞台が閉幕された後、上田さんが自身のツイッターにて劇中のすべての楽曲の歌詞を順に公開したうちの一つ、上に貼ったオープニング『夜は短し歩けよ乙女』の歌詞である。これを含むすべてが、作者・森見もりみ登美彦とみひこ氏の原文を基に上田さん自身の作詞によって書かれている。

原作は、台詞はもとより、地の文も「先輩」「黒髪の乙女」の一人称のモノローグで進むつくりになっていた。とりわけ「乙女」の担う箇所は密度が高く、またその言葉たちは表現から視点から、彩り豊かと言いたくなるほどに華やかで多彩な筆致であった。

そんな言葉の彩りを、濁さずそのまま表現すべく、単に喋って発するのでなく、韻を踏みつつリズムに合わせ、聴き手を言葉に引き込むように、ラップのようにメロディのように仕立てられたのがあれではないか。

言わば、小説における「地の文」を、今回のように生身の俳優、生音の声、それらを以て舞台上で表すための、もっともストレートな落とし込み方が「ポエトリーラップ」という解であったとさえ感じた。小説におけるナレーションや世界観の説明・演出としての「地の文」が、舞台においては「ポエトリーラップ」という形を取ることで、役割を崩さないまま保っていたのだ。

※一方で「先輩」は、常にあくまで言葉で地の文にあたるモノローグを語っていたが、派手過ぎるくらいに抑揚のついた発声によってあれらが「ポエトリーラップ」に近い効果を持っていたように思う。歌舞伎仕込みの、と言ってしまうといささか短絡的だが、個人的には活弁士のそれに近いのかなと思った。

そんな「乙女」のポエトリーラップであるが、個人的に特に印象強かったのが、上に貼った「冬」の場面にて歌われた『先輩の家へ』である。

実際に観劇・あるいは配信を視聴して聴いていたらわかるかと思うが、劇中歌の中でも特にメロディの要素が(♪の部分を除いて)薄かったのが『先輩の家へ』であった。

なんならラップらしさすらも薄かったように思う。後ろで鳴っているトラックに合わせて台詞を発しているのみの範疇に留まった、劇中歌の中でも限りなく「語り」に近かったのがこれであった。

しかし何故だろう、個人的な感覚に過ぎないかもしれないが、妙なほどメロディを纏っていたように聞こえたのだ。当然、〈そうして私は~〉から〈身支度しました〉までも、〈魔風邪/恋風邪~〉から〈もうすぐです!〉までも、そのどれも。

過去Perfumeの3人とmiwaさんとの間で交わされたやり取りで、以下のようなものがある。ここにきて引用元がTwitterのbotになってしまうが、いつかにどこかの何かしらでこのような会話が行われたようだ(Perfumeが09年~16年にナビゲーターを務めていた『MUSIC JAPAN』だろうか)。

あ〜ちゃんの言う「喋ってるときも歌ってるみたい」という表現が、久保ちゃんにも当てはまっているように思える。『先輩の家へ』を聴いたとき、それを強烈に感じてならなかった。

限りなく「語り」・台詞に近いパートさえも、メロディがひっそりと乗っているように聞こえた。むしろ、本来メロディは付いていたが「乙女」の感情が高まりのあまりにああなってしまった、くらいに思えた。

それくらいに、久保史緒里の発声は自然とメロディを纏う。彼女の腹から喉を通って口で発せられるそれは、常に「歌」の可能性を孕んでいるのだ。そう思えた、というか、「そのことに気付かされた」と表現してもいい。

上田さんの書いた、「久保さんのラップ、調和とリズムに満ちています。」という表現がまさにそれである。

ひいてはそれは、彼女の発声とポエトリーラップとの親和性を示している。彼女の歌唱力は以前から評価が高いが、この上田さんの表現はポエトリーラップと抜群に相性がいいことを端的に言い表している。

それは、久保ちゃんのリズム感と音感、声質がとにかくずば抜けていることに起因すると想像できるが、なんなら今回歌った原曲がポエトリーラップという明確にメロディを持っていない形であったために、一層そのことが強調されていたようにさえ思う。

ポエトリーであることで台詞(≒演技)として感情表現が乗りやすくなった分、さらに重ねて強調されている。

ポエトリーラップに乗せて自然と感情を発さられることで元が「一人称の地の文」であることをより確立させたのだ。単に「良い曲」「上手い歌」にまとまるのではなく、その時その時に「乙女の感情が発信された」と感じさせてくれる。

それはいざ『夜は短し歩けよ乙女』を聴いてみたとき、歌詞・フレーズ単位で切り分けてみても見い出すことが出来る。

例えば〈木屋町のナガブチ〉で感じるのは、乙女のちょっととぼけたような「なんじゃこりゃ?」という感情。〈こつこつとアスファルトに刻む〉のほのかな笑みの声に現われているのは、そんなナガブチの存在もなんだか楽しみ始めている様子。

道中をずんずん足を踏みしめていく感じが〈北へ 北へ〉に現われ、うら若き乙女の憧れの目線が〈魅惑のその大人ぶり〉に滲み、〈調和のある人生〉の噛み締めるような言い方には、それが何より大事な事であるとして優しく抱くようなニュアンスが現れている。

〈むんと胸を張りました〉のちょっと力む様子にも可愛げが溢れ、締めくくりとなる〈夜は短し歩けよ乙女〉のフレーズは、まるで久保ちゃんが「乙女」に声を掛けたような、「乙女」が久保ちゃんに声を掛けたような、そっと背中を押すような万感の優しさと勇気そのものに聞こえてしまった。

そんな風に、フレーズ一つとっても、歌い手によるポエトリーラップならではの感情や気持ちの乗り方が、聴き手に対しても大きく作用している。あくまで一個人の感覚であるが、しかしあながち間違ってはいないのではなかろうか。

あえて取りまとめるならば、久保ちゃんの歌唱力と演技力がちょうど均衡する形で乳化して現せる最も適した手法が今回のポエトリーラップであったと言いたい。聴き心地やシーンとしてのインパクトの表現、感情の乗せ方まで含め、全てがバランス良くプラスに寄与しているのだ。

で、それを踏まえた上で取り上げたいのが「♪」の部分、つまり乙女が担うパートの中でも意外にも数少ない、明確なメロディを歌う部分である。

ここまで、乙女の感情や想いの移ろいがポエトリーラップに乗せて放たれてきたが、その延長として「歌」が今回配置されている。「歌」が独立しているというより、ポエトリーラップありきの立ち位置にあるのだ。

求めていた偽電気ブランを遂に口にする時、風邪っ引きの皆さんの元を周って最後先輩の家へと向かう時、喫茶店での先輩との2人きりの時間に何を話そうかと考える時。

春夏秋冬を通した全体の物語の中で、乙女の気持ちが特に高まった時にポエトリーラップはメロディを携えて確かな「歌」になっている。

それこそ乙女の感情はポエトリーラップに乗る形で現われてきたが、それは、うっすらメロディを纏っているような纏っていないような、やんわりした一定の幅の中に収まっていた。そして1つラインを超えた時にだけ、乙女の感情はメロディとなって顕現する。

感情というものは単純なオンオフでないわけだが、その複雑なグラデーションっぷりがまさに、ポエトリーラップが台詞と歌の中間を埋める形で、台詞⇒ポエトリー⇒歌という境目の曖昧な表現の移り変わりによって表されていたのだ。

(『ヨーロッパ企画のブロードウェイラジオ』内で上田さんが語られた内容が、諸々の答え合わせのようになっていたので良かったらお聴きください。)

そして、それを実現せしめる最重要素というのが、久保史緒里という人の歌声である。歌唱力についてはここまで何度か書いてきたが、特に効果的であったのは彼女の歌声そのもの、声や話し方そのものであったように思う。

若干低めの声色ながら、話す語感はどこか幼さあるいは甘みがあり、一方でずば抜けた滑舌に基づいたエッジの効きや、僅かに漏れる吐息が生む大人びた落ち着きによって頼りなさは払拭される。その上で演技に近い手法でトーンを操り、ニュースキャスターのように受け手の聞き心地を自分の支配下に置いている。

もちろんダンスや芝居など動きとセットであっても歌のクオリティを保つことのできるフィジカルまで含まれてこそであるが、ともかく彼女の声が今回の「黒髪の乙女」をより良いものにしている。前後してしまったが、上で取り上げた「喋ってるときも歌ってるみたい」という表現が、まさにそれ!ということだ。

「語り」を一段ポップに演出された結果として「ポエトリーラップ」があったわけだが、逆に言えば乙女のポエトリーは「語り」の成分が多く含まれていたわけである。故に、久保ちゃんの声そのもの、普段の話し方ないし台詞の発し方が、丸ごとポエトリーラップのクオリティに作用した。

楽曲『夜は短し歩けよ乙女』によって乙女の感情を鮮明に感じられたことを書いたが、そのことはそのまま、久保ちゃんの表現の卓越さを物語っているのだ。いやむしろ彼女が演じた時に自然と現れてしまう芸術性と言ってもいいかもしれない。

先に貼り付けた上田さんのTwitterで竹中直人さんもろとも「歌おばけ」と評されていたが、彼女が「歌おばけ」たる由縁はこういう部分にもあったのではないか。

久保史緒里の声質や言い方、それらの要素が、舞台『夜は短し歩けよ乙女』の楽曲を歌うにあたってあまりにもふさわしかった。強烈に噛み合っていた。ある意味彼女は、"楽器"としてものすごく上等であったのだ。

「こうして出会ったのも何かのご縁」とは物語上で最も重要なフレーズであるが、舞台『夜は短し歩けよ乙女』の演出としての「ポエトリーラップ」と、久保史緒里の声、歌、話し方とが出会ったことがまた、今回紡がれたご縁の一つであったのだなあと思い至ったところで筆を置きます。

以上。





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