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舞台『桜文』感想、もとい、ただ黙って受け止めるには濃いすぎたゆえの吐き出し

※ネタバレ注意。2幕の話から始めてしまったので、観劇前に読むには不向きな内容です。

※9/17、9/25の再観劇のつど、いくらか追記しました。

3期生メンバー・久保史緒里ちゃん主演舞台『桜文』を観てきた。

遊郭に関する予習は映画『吉原炎上』(1987)を観ておくくらいで、あでやかなキーヴィジュアルの美しさに息を飲みつつ、着座して開演をただ楽しみに待った。

昭和初期の場面から始まるこの物語は、主人公の一人・霧野きりの一郎いちろうがすっかり老いた姿で現れる。吉原に辿り着いた彼が記憶を呼び覚ますと共に本筋へと入り込んでいくその演出が、まず何より圧巻。

幻想的なタイムスリップ的な描写で、セットや人々や映像が舞台上を目まぐるしく行き交い、歌が遠くで鳴っているように響く。彷徨う霧野は、花魁の影に誘われるまま惑い、光の中に吸い込まれていく。

観客たる我々も同じく、夢見心地のごとく心掴まれ、この物語へと、彼の封印されていた明治40年代の記憶へと没入する。

で。

いざ観終わってみると、胸の奥にズシンと重い石が埋め込まれたような、水に顔を沈められては上げてを繰り返されたような、そんな気分になった。

遊女が送る人生を描いた物語はあまりにもハードで、観劇からずっと頭のどこかで考えてしまう時間を過ごしているし、ふいに登場人物の気持ちを想って落ち込んだりする。

凄いもんを見せてくれたな、という想いでいっぱいだ。それは不満とか文句ではなく、一人の観劇好きとしての賛辞であるが、いやともかく凄い。

久保ちゃん自身が語った表現が、端的にまとまっている。

――台本を読んでみて、どんな感想をもちましたか?
久保史緒里「話が進むにつれて衝撃というか、苦しいなと思う部分が、1段階でなく波が何度も来て、今まで出演した作品とは一味違った苦しい役どころだなと思いました」

久保史緒里「桜文」インタビュー「演じる上で身が引き締まる思いがしました」- SCREEN ONLINE

――桜雅の印象は?
苦しい心情を表現する役というのが第一印象です。桜雅は「笑わない」のでそこが鍵になってくると思っていて、ここまで苦しい役を演じさせていただくのは初めてです。

乃木坂46久保史緒里、舞台「桜文」で初の花魁役「これまでの私とは違う一面を出したい」:インタビュー(MusicVoice) - Yahoo!ニュース

まさに「苦しい」「波が何度も来る」。『吉原炎上』を教材に予習しただけに、遊女がどんな人生を辿るのかおおよそ頭にあり、ゆえに顛末の予想も付くのだが、だからこそ「こうならないでくれ」と必死に願い、それはいとも簡単に打ち破られる。

特に2幕だ。2幕では久保ちゃん演じる吉原一の花魁・桜雅おうがの、少女時の淡い恋模様が演じられる。が、それは既に過去の出来事なわけで、その後遊女としての道に進んでしまうわけで。

過去が美しければ美しいほど、これはすぐに崩れてしまうのだと思って落涙せざるを得ない。

「後の展開が分かるからこそ、楽しい場面が悲しい」という、今までにない観劇体験をしてしまった。

まだ雅沙子まさこだった頃の、齢16の彼女は、純情でいたいけで世間知らずで、文学を愛する少女であった。演じる久保ちゃんも、過剰なくらいに舌ったらずであどけない芝居をしていたように思う。

彼女は男爵であった父が借金返済に苦慮する間、遊郭・宝珠楼ほうじゅろうに預けられていた。そこで植木屋見習いの少年・仙太せんたと出会う。親元を離れ、心細い想いをしていた雅沙子。彼に「つらい時こそ大声で笑え」と教わり、短い間にも心を通わせていく。

桜の木を立てる仕事を担っていた仙太。翌日の夜桜の祭りで八重桜の手入れを任され、雅沙子に「見に来てほしい」と一緒に行くことを約束をする。

その夜、楼主に呼びつけられた雅沙子。

雅沙子は、父親が結局借金の片を付けることができず、自分は遊女として売られたのだと告げられる。

そして楼主は、善は急げと言わんばかりに、雅沙子の初見世を明日行うと一方的に決めてしまう。

身も蓋もなく言えば、悲しきかな、「遊郭ではよくある話」だ。それこそ『吉原炎上』の主人公・久乃ひさのは、船乗りだった父が事故の賠償金を工面するため、吉原に売られてきた。

だからこそしんどい。仙太と隣り合って無邪気に笑っていた雅沙子に、吉原の遊女となるその瞬間が、非情なまでに"案の定"訪れてしまう。

なまじ久保ちゃんの演技がめちゃめちゃ上手いだけに(呆然と言葉を失った表情、浅くなる呼吸、ぶれていく瞳の焦点、ぐらつく身体!)、雅沙子があの瞬間味わった絶望が肌身にわかり、なんかもう、体が内側から喰い破られそうな感覚になった。

まして吉原遊郭の遊女になったことは、性労働者になっただけではなく、人身売買がまかり通っている上で成り立っており、それも借金のカタに家族に捨てられたという、人としての尊厳を奪い尽くすフルコンボ。

(補足)

元吉原の認可前年には人身売買は禁止されている。しかし借金による年季奉公は10年間までOKとされていた。遊女の多くは貧農や困窮商家の娘だ。親は年季分の給金を前受けして奉公契約を交わす。結局は身売りである。

時空旅人 2022年3月号 P27

更に雅沙子は「お父様が迎えに来てくれる」と信じ込んでいた中で、2人の妹にも目を付けられ、挙句、仙太との約束の日に初見世。雅沙子を探しに来た仙太は、追い返そうとする男衆に無残にも殴り殺されてしまう。

これまで信じていた生き方も価値観も崩され、家族を守るためには仙太の後を追うことさえできない。「遊郭ではよくある話」に更に肉付けされた悲劇が雅沙子を襲うのだ。

楼主とその内儀が商品●●を前に嬉しそうに笑う。そして、さも上手いことを言ったように源氏名——桜雅と名付ける。

(仙太との美しい思い出の一つ、"桜"の字が、雅沙子が苦界に堕とされたことを象徴することになり、尚苦しい。)

もう、こいつら、いや実際のところは多くの登場人物が、あまりにも邪悪。雅沙子への感情移入と同時に、とにかくそのことが怖くて泣きそうになった。

「男が通う極楽道、娘が売られる地獄道」とはよく言ったもので、ファニーさも何もない、絢爛で残酷な世界が、執拗なくらいに描かれていた。

こうまでされたら、"笑わない遊女"が生まれるのもむべなるかな、といったところである。

「笑うことが出来ない」のではなく「人に笑顔を見せない」。では何故、彼女が人前では笑わないのか。その背景には、想像をはるかに上回る容赦ない悲劇があった。

だからこそ、霧野の前で見せた笑顔にどれほど価値があるのか、桜雅が霧野の前でどれだけ心を開いてしまっていたか、ひしひしとわかる。

遊郭の遊女は得てして、派手に着飾り、明るく陽気に振舞っている姿を見せることが多かった。2幕冒頭で登場する花魁たちもまた、やけに明るく植木屋たちを茶化していた。

言ってしまえば彼女達は、そうしないとやっていけなかったんじゃないかな、と思った。その明るさは逞しさでもあり、一つの線引きでもあるものだ。

しかし桜雅は、ある意味真逆の方法で、心を守ってきた。

「本当の自分は、桜雅としての今ではなく、仙太と過ごしたあの時間の中にいる」という守り方ではないか。

彼女が仙太と2人で共有したものが「笑う」ことだった。それを他の場で出すことは、彼と交わした心を露わにしてしまうことに他ならない。「笑う」ことで繋がった彼との美しい記憶を頼りに、それを譲らないために、笑顔を封印したのだ。

そのさなか目の前に現れたのが、仙太と同じまっすぐな眼をした青年・霧野だった。仙太と同じようなことを言い、そして自身も愛する文学を通して繋がることができた霧野。

桜雅は、彼の前で思わず口調を変えてしまう程だった(「主さん」と呼んでいたのが、「あなた」になったり)。文学の話題となると思わずまくしたててしまう様子にも、「文学オタク」な気質であろう彼女の素の一面が垣間見れた。

過去の記憶にすがる日々を抜け出す兆しを、もう一度「雅沙子」として生きる希望を、そこに見たからこそ、霧野との道を選ぼうとしたのかもしれない。

しかしそれは、邪悪たる一人、紙問屋の旦那にして桜雅の馴染み客・西条さいじょうによってぶち壊される。

霧野と桜雅の、2人だけの秘密のはずだった桜雅の過去を盗み見た西条は、あろうことか「作家」というアイデンティティを揺さぶるやり方で、霧野を追い詰める。「自分の話をするということは、それを物語にしてほしいと望んでいるからだ」と口八丁を添えて。

更に追い込むように、編集長・片岡にも「自分の一番大切なもののために書け」と焚き付けられる。一人残された霧野は、彼の言う「欲求」を自分の内に問う。

そして書いてしまう。「あなたが望むなら」と。

当然それは桜雅が望んだことではなかった。彼女は、自分の為だけに物語を書いてくれたことが、それを桜雅が批評するのを待ち望んでくれたことが、嬉しかったはずだ。

夢の中で「あなたの手紙、待っているのよ」と声を掛ける桜雅。それに対し、目の前で出来上がっていく原稿がこそ、その答えで彼女への手紙なのだと疑ってやまない霧野は「ずっと書いているよ」と応える。

『花簪』が載った新聞を読んだ、桜雅の様子。あの瞬間久保ちゃんは、おそらく意図的に、雅沙子が父に売られたことを知った時と同じ演技表現をしていた。同じほどの絶望が、あの瞬間の彼女に訪れていたのだ。

その時に見せた、何もかもどうでもよくなってしまった乾いた笑いが、あまりにもつらい。

心からの笑顔を霧野に見せるはずだったのに、心が壊れたゆえに、ただの"反応"として「ハハハ」と笑うのだ。

「それでも桜雅を自分のモノに出来たらいい」といった様子で身請けする西条が、ことさら邪悪だ。ヒトである必要が無い、ということなんだから。奴は人格者のように振舞っているが、所詮は金払いが良いだけの好色家でしかない。

邪悪がプライドをズタズタにされた時、こうまでなるかと閉口するほかない。「なぜだ」と落胆する彼を見て気持ちを理解できそうかなと一瞬思ったが、そんなことはなかった。

心神喪失状態にあった桜雅は、霧野を前にした時にその感情だけが甦り、かつて仙太から贈られた桜のかんざしを彼の胸に突き立てる。霧野が地に伏した時、そこで正気を取り戻してしまい、「誰が彼を刺したの」と嘆く。

そして自らが刺したことを告げられた桜雅は、自身の目を「腐ってる」と、かんざしで潰してしまう。

その後西条が呆然としながら吉原の大門を出ていく様子から、奴もここまでの事態になるとは望んでいなかったことがわかるが、そんなのは皆そうだ。

事の発端にかかわる振袖新造・葵も、桜雅へ嫉妬心こそ抱いていたが、桜雅を嫌っている訳でもなければ、根から悪い子でもない。

葵は、西条からの身請けの誘いを保留にした桜雅に激昂しながらも、同時に「もう辛い想いしなくて済むのに」「吉原を出られるのに」と涙ながらに訴えていた。この言葉には、単なる横恋慕ではない、遊女としての複雑な想いが現れている。

それぞれの思惑や猜疑心が、うまくいかず転がって転がって、すべての歯車が噛み合って最悪の結果になってしまった。桜雅が霧野と手に入れられたはずの幸せな未来は、悪意によって、零し落としてしまったのだ。

最後、霧野と桜雅の2人は、生涯を終えた老いた霧野の傍に若かりし頃の姿で現れ、手を取り合って光の中へと消えていく。

この描写は解釈が分かれそうだな、と思った。2人は互いに相手に裏切られた(と思ってしまった)故の悲劇的な選択をしてしまったが、それをすべて受け入れた上で笑顔を向け合っているのだから。

だが個人的には、すごく救われる結末であったと思う。なぜならこの作品は、明治40年頃の彼らではなく、当時を経て昭和初期まで生き続けた彼らの物語であるからだ。

舞台上で描写された若き霧野と桜雅の姿は、老いた小説家が代書屋の老婆と共に書いた『桜文』という物語である。この舞台において、「それを書いた2人」がこそ真の主人公なのだ。

老いた霧野は、老婆に「書きなされ」と促され、失っていた言葉を書けるようになる。「それから」と続きを求められては筆が進む。これは、かつて妓楼の書斎で、「あなたの物語を書くべきよ」と桜雅が若き霧野に求めた様子のリフレイン。書く彼とそれを求める彼女、その構図がこそ、霧野に言葉を取り戻させたのだ。

中盤、「ゆびきりげんまん」の場面では、霧野と桜雅と、老婆の3人が現れる。彼女もまた秘めていた明治の頃の記憶があった。それが呼び覚まされ、霧野が進める筆に徐々に同調していったのではないか。

最後、老婆は老いた霧野と共にペンを握ったまま果てていた。当初は促すだけだった彼女は、「ゆびきりげんまん」を境に、自身の物語でもあるとして、書き進める彼の手を取ったのではないだろうか。現在のタイムラインにおいて、"そう"なった瞬間があそこだったのだと思う。

桜雅――雅沙子が求めた"あなた"の、否、霧野の最後の言葉を借りるならば"僕たち"の物語が、最後にやっと書き上がった。それは、彼女が彼に求めた本当の望みが遂に果たされた瞬間だった。

共に書き上げたことで、彼らの魂は昇華されたのだ。

その物語、『桜文』を読んだ昭和の花魁・京子は、間夫の岩崎と抱き合って激しく涙を流す。この場面もまた解釈が分かれている。

ポイントとしては、岩崎と京子は「手紙」で繋がったということだ。京子は、久しく訪れなかった岩崎に手紙を(代筆を頼んで)出し、それを受けて彼は彼女の元へと駆け付けた。

霧野と桜雅もまた、一度のみの逢瀬のあと、手紙のやり取りだけで繋がっていた。しかし、それを邪魔するあの手この手によって生まれた最悪の齟齬が、2人を破滅に追いやった。

岩崎と京子がそれを知ったことを鑑みれば、「手紙で繋がることが無事に出来た」喜びが彼女を満たした、と言えるかもしれない。その立役者たる老婆がその実、雅沙子その人であるから、また美しい帰結である。

そんな風に想い、岩崎と京子を祝福することで、いっそう霧野と雅沙子を救うことになるんじゃないかなあなんて思う訳です。

残酷な波がことごとく押し寄せる展開は、ある意味、脚本家の方のクリエイターとしての"業"を見たようにも感じた。

「これくらいの絶望じゃないと人はああまでにならないだろう、だからそう描かなくちゃ」みたいな、物語の完成度やキャラクター造形こそを是としなければ、ここまで突き詰められないんじゃないか。

作中の描写で言うと、桜雅の過去を(彼女の手紙で)知った霧野が「面白い」と零したことが印象的だった。後にそれを自身も物語として書いてしまうが、雅沙子の身に訪れた悲劇を、まずストーリーや筆致をもって「面白い」と評してしまうところに、霧野が抱える作家・あるいは文学を愛する者としての"業"が既に現れている。

終盤、狂気に身をやつした霧野は、桜雅の優れた筆致に嫉妬していたようにも見えた。彼女の過去を物語として書き始めてしまったことも含め、それはやはり、彼の作家としての"業"(≒欲求)ではないか。

極論、霧野の姿に描き手のそれが投影されている、とまで言ってしまえるかもしれない。脚本を務められた秋之桜子さんの手がけた作品、もっと観たくなった次第である。

しかしながら、そんな容赦ない作品を支えたのは、ほかならぬ主演の2人だ。

ゆうたろうくんのお芝居が、とにかく瑞々しくてエネルギッシュで、演じた霧野・仙太というキャラクターが純朴な人物であることと見事に噛み合っている。

本人がめちゃくちゃ魅力的であることは、同時に霧野・仙太の魅力を、そして、彼(ら)に惹かれる桜雅/雅沙子の感情をも実質的に描いてしまう。ゆえに後半の、没頭して狂っていく様も、釣られて共に堕ちていく感覚にさえなった。

初演時のカーテンコールの際、彼が立つ下手側の席にいたのだが、初演を無事に終えて気丈に礼をしながらも、うっすら涙を浮かべる姿を発見してしまい、もう、めちゃくちゃ好感を持ってしまった。

そして、経歴を着実に積み、いよいよプロの風格を全身に纏う久保史緒里ちゃんである。謎を秘めた花魁として現れ、その美貌で観る者を魅了し圧倒させ、文学を語る素顔で惹きつける。雅沙子であった頃のキュートさ、絶望に堕ちた瞬間の壮絶な表現、それらも上記の通りだ。

もはや重厚感さえある彼女の芝居は、本当に、それを観ること一点だけを目的にして足を運んでもなんら違和感はない。あの"凄み"は、間近で感じるべきだ。

今は乃木坂46のメンバーとしての活動が主であり、なんなら中心に立つ存在としての比重がより高まっているが、一人の女優としての存在感も漂わせていることを今回これでもかと見せつけている。これからも楽しみだし、信頼、と言い切ることが出来る。

こんなところで。

長野公演の大千秋楽までキャスト誰一人欠けることなく終えることが出来たとのこと、心よりお祝い申し上げます。この物語が最後まで無事に演じられたことが何より嬉しいです。

現在は、配信があった東京公演のアーカイブ視聴が告知されております。未見の方、是非に。

以上。

明日飲むコーヒーを少し良いやつにしたい。良かったら↓。