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「完璧な彼女」を友人に持った作家の、体験談を読んで。

「女友だちの賞味期限」(プレジデント社)は、アメリカの女性作家たちが、女友達との関係について実体験に基づいて書いたものを集めたアンソロジーである。

友達同士のつまらないいざこざについて書かれたものなんか読みたくもないし大嫌い、と、ふだん思っているのに、この本に収録されているもののいくつかは、うんざりするような出来事を客観的にうまくとらえており、小説を読んでいるような気分にさせられた。

とくに、リディア・ミネットによる「完璧な彼女 こよなく美しい彼女の許しがたい一面」は、強く印象に残っている。

リディア・ミネット=「私」がまだ、学生時代のことである。
「私」は、語学の勉強のため訪れた先で同じアメリカ人の、ウェンディという友達ができる。彼女はとても綺麗で、そして、それだけでなく、頭がよくてやさしかった。

「私」とウェンディは、アメリカに戻ってからも連絡をとりあおう、ということになり、お互いを行き来するようになる。
ときおり、自分と彼女の美しさを比べてしまい、劣等感を刺激されることもあったが、その気持ちを隠しながら、つきあいを続けた。

しかし、その後「私」は、信じられないような事実を知る。
ウェンディのボーイフレンドのデイビッドが、ずっと昔に、許しがたい犯罪に関わっており、しかも、それは訴えられることなくうやむやのままになっていたのである。
しかも、ウェンディはそれを知ったうえで、彼と交際をしていたのである。
「私」はじょじょに、ウェンディにも不信感をつのらせるようになり、そしてついに、ある決意をするのだった。

「私」は、自分の外見、そして内面にもあまり自信を持つことのできない若い女の子で、語学を学びに行った先でも、美しい北欧の人たちを見て、自分を卑下してしまっていた。
そのため、ウェンディという綺麗な女の子、つまり、自分と違う種類の女の子に「お友達になってもらえた」のを、「名誉なこと」と、とらえてしまい、彼女とのつきあいの中で違和感を覚えても、それを知らず知らずのうちにおさえつけてしまうわけだが、その様子がとてもうまく描写されている。

ウェンディはベジタリアンで加工食品やお菓子は食べず安いビールも飲まずロックも聴かずテレビは公共放送のみ、そして、合成繊維は肌につけず、化粧はしなかった、というより、する必要がなかった。すべてが、優等生の美女なのだ。
あるとき「私」は、ニューヨークへ彼女を訪ねに行くのだが、そのマンションの部屋は、隅から隅まで手入れされており、どこにも指紋がついてないのではと感じるほど清潔であった。
その「綺麗さ」「清潔さ」は、ウェンディと同じくらい「完璧」で、なんだか、読んでいて怖くなってくるくらいだ。

見た目も、そして、中身も申し分ない女の子のように見えていた女友達、崇拝の対象であった女友達が、「私」の中で、理解できない存在へとじょじょに変化していくのは、読んでいて興味深かった。
そしてそれは、「私」の、精神的自立にも、つながっていくのだ。

ラストの文章は、「コンプレックスを持っている女の子の負け惜しみ」ではなく、「違和感を無視することなく、自分の気持ちに正直に従った結果、出てきた本音」であろう、と受け止めている。

ちなみに、私は本を読むとき、この登場人物はこの俳優で・・・とキャスティングしたうえで読むことがあるのだが、「完璧な彼女」をはじめて読んだとき、ウェンディを、スカーレット・ヨハンソンにキャスティングして読んでいた。
本人は嫌がるかもしれないが、あくまでも、私の脳内でのことである。ウェンディのような「完璧美女」をうまく演じられる人を、ほかに思いつかなかった。






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