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【展覧会レポ】すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している:神奈川県立近代美術館 葉山

神奈川県立近代美術館葉山に「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」展を見に行きました。

海辺の、眺めのいい美術館。すてきなカフェもある。
この日はとても天気が良かった

内藤礼の作品を見るために葉山まで来た。
葉山はじめてきたけどめちゃくちゃ暖かい(なお、訪問したのは11月)。そういえば何年か前に鎌倉行ったときも、1月に既に梅咲いてたもんな…🙄 山の民なので海の気候よく分からない🤷

海からほんの数メートルのところにばんばんヴィラ風マンションが立ってて、景色がいいんだろうが、津波来たとき全部流されそうだけどいいのか?という感想しか湧かなかった。

別に企画展がやっていて、お目当ての内藤礼は企画展示室の奥にある一部屋だけだった。

展示は、以前(2009年?)に旧館で行った展示の再構成とのことで、作品は同じだけど展示されている格好が違ったりして、変奏曲のような感じ。
ところでこのタイトルってバタイユの引用らしいけど、読めるようで読めない(日本語文法としては破綻している)ところが、この作家の作風の非常に感覚的で繊細で、有機的なところとマッチしているなあと思う。

内藤礼の作品は本当に落ち着く。豊島の「母型」みたいな大きな構造物じゃなくても、作品が配置されている空間そのものが大きな結界のように感じられる。
作品はいつものようにテグスや透明なビーズ、ガラス瓶、水、鏡など、光や風など周りの環境に影響を受け続けるような素材が使われている。
展示室内は自然光で鑑賞するようになっており、天井から吊られたテグスが空調の微かな気流にたなびいて、ゆっくりと傾いていく晩秋の日差しで銀糸のように輝いたり、だれかが操っているかのように白い風船がふわふわとたゆたうところをとにかくぼんやりみていた。ほかに人もいなくて、じっとしていると、水を満たしたガラス瓶から水がわずかずつ蒸発する音すら聞こえてきそうだった。

彼女の作品を見ていると(本人が語っているように)、別にガラス瓶やテグスじゃなくても、この世界にいる以上、つねに他者や環境の影響下に絶えず置かれていることや、その意味ではわたしたちも風にふかれてひるがえるリボンとなんら変わらない、頼りなく、かぼそい存在なのだと言われている気がする。

彼女の言葉でいうと、「生」の反対は「死」ではなく、「生の外」らしい。わたしたちは生の外からやってきて、この世界にしばし留まり、やがてこの生から出ていく、という死生観は、なんというかとても救いがある。死が必ずしも恐怖や痛みをもたらすわけではないけど、「死ぬ、消滅する、消える」よりは、「生の世界から移動して、生の外側に出る」と思うほうが、なんだか安心する(これは宗教で言うところの輪廻とか往生とかの概念に近いかも)。

「地上はどんなところだったか」というタイトルの作品もあるけど、この言葉からわたしはアイヌ神話の世界観を連想した。アイヌの神話では、カムイはフクロウや熊の姿で地上に降り立ち、人間に狩らせることでその肉体を与える。人間はその返礼として盛大なお祀りを行う。カムイは天界に帰って、地上ではどんなことがあったかを仲間のカムイに語り聞かせる。…もし自分が死んだら、先に亡くなった人たちに天国で再会して、「わたしの人生はこんな感じだった、色々あったけど結構楽しかったよ、もう一回人間に生まれたいなあ」とかそんな話をするんだろうか、できたらいいな、とかそんなことも考えた。

展示室の床に座り込んで、たっぷり鑑賞した。平日で人も少なく贅沢な鑑賞体験だった。何年か前に行った豊島では、「母型」の中に小一時間いたんだよなあ。それくらい時間を忘れて浸かってしまう、彼女の作品には…。