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コロナの時代は楽しかった

正直に言おう、コロナの時代は楽しかったと。

外に出られないからこそ、個人が「声」をメディアにできるClubhouseやTwitterスペースが盛り上がって、ポッドキャストなんかも面白かった。VTuberの長時間配信を観るようになったのもこの頃だ。

直接のコミュニケーションには積極的でない人間でも、趣味を同じくする人と交流するのが簡単になった。全員が同じ土俵の上に立つようになったからだ。また、そこでできたつながりが、半年に一度の文学フリマという場で本という形をとって一気に爆発する、というケースもしばしばだった(現在に至るまでの同イベントの盛り上がりにつながっている気がする)。

それが全部「𝕏事変」によってぶち壊された。「この場所はいつ壊れてもおかしくない」という不信感は、未だに多くの人がとどまり続けているにも関わらず、その場所から「交通」を奪ったような気がする。しかし代替となるMastodonなどのSNSに乗り換える気もどうにも起こらない。もともと自分は直接のコミュニケーションが苦手だったからだ(そう、「直接の」というのは身体を直面させて、という意味じゃなく、一対一の無線通話なんかも含む「親密な」コミュニケーションのことだったのだ)。

誰もが一方通行に独り言をつぶやいていて、それがたまさか交じり合うこともある、というTwitterの世界観が好きだった。

そしてリアルの人流も復活しつつある。飲み会やらなんやらもおそらくそうなのだろう。自分には実感がわかない。ちょうど「もうマスクとか、いいでしょ」となった時期に、コロナの間力を注いできた仕事がなくなってしまったからだ。そのまま次の仕事にアサインされることもなく、数ヶ月が経過した。コロナ前と同じ自宅待機が主の生活が続いている。

その間ほとんど自分の(うまくいけば本になるかもしれない)原稿を書いたり、同人誌をつくることだけをしている。2021年、最初に自腹で本をつくろうと思った一番の動機は、自分が間違いなくコロナでうきうきした側の人間で、その世界中が一瞬停止したかのような錯覚、そこにあった透明感や減速感が、どん詰まりに向かって加速していくこの世界に訪れた亀裂、変化の機会をもたらすものになるかもしれないという予感を、形にしたいと思ったからだ。その感覚を後世に保存したくて、今も同じことを続けているわけだ。

でもそれって時代の流れからは取り残されていくということでもある。「もとに戻ろう」とする時代の流れに。

だから自分はいますごく孤独である。しかも年齢だけはどんどん積み重なっていく。世間様からは仕事に空白期間があって、単に謎の人間と思われるかもしれない。正しい信じたことをやっているという実感はあるけれど、どう見られているかというのはやっぱり怖いのだ。知らない間に化け物になってるんじゃないかという不安は、やっぱりある。

でも、やっぱり、自分にいま必要なのは勇気であると思う。信じたものをやり切る勇気が。

社会がいかに「もとに戻った」顔をしていても、「ずっと求めていたものがここにあった」とあのとき感じてしまった自分は、今さらもとには戻れないのだ。どこかにいるかもしれない、自分に似た誰かに向けて、手紙を書くようにして文章を書き、本をつくるしかない。

それが自分の生存戦略なのだ。

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