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VTuber配信の面白さは「OBS芸」に宿る―― #にじさんじラジオ体操部 に見るバーチャルライバーのクリエイティビティ

にじさんじ所属バーチャルライバー・不破湊さんによる「にじさんじラジオ体操部」企画が今年も始まりましたね。自分は昨年のこの企画を機に「にじさんじ」というグループ全体に興味を持つようになって、今では毎日誰かしらの配信を観ることが完全に習慣となっているので感慨深いです。

今年のゲストは1組目に月ノ美兎さん、2組目に加賀美ハヤトさんと続いていますが、お二方とも非常にトリッキーな形での出演の仕方をしていました。「実写の公園の写真を素材として活用したバーチャルな3次元空間(「不破湊公園」)にやってくるゲストを毎回迎える」という体で進行するからこそ、3次元空間ではまずしないような動きだったり、「公園」という場所には似つかわしくないような姿で現れることにおかしみが生まれます。

VTuber(バーチャルライバー)はOBSという配信用ソフトを用いて、自身の身体を含む素材をひとつの画面上に合成していることが知られていますが、「にじさんじラジオ体操部」はリアルタイムでお互いがその「OBS芸」の手札を切り合うような緊張感が時に見られるのも魅力になっています(とはいえ全体からするとここまでラディカルなのは少数なのですが)。

昨年特に「神回」と感じ、「VTuberの配信を観ることって、アニメや生身のYouTuberの配信を観るのとは違う根本的に新しい体験なのかもしれない」と自分に思わせることとなった剣持刀也さんゲスト回については、同人誌『青春ヘラver.7「VTuber新時代」』に寄稿した論考、「〈レイヤー合成〉による新たな主体性の創出――〈バーチャルライバー〉原論のために」でも取り上げました。

今回、同誌編集長のペシミさんに許諾をいただき、拙文の中からこの「OBS芸」の面白さについて触れている箇所を抜粋して掲載します(noteへの転載にあたり、読みやすさを考慮して改行位置などは変更しています)。

どんなに奇抜な「芸」を披露したとしても変わらずにあり続けるものとしてのVTuberの「声」の特別性に言及しつつ、タイトルの通り、文章は最終的に〈バーチャルライバー〉という概念がいかなるものか、というところまで向かいます。なかなか面白い文章になっていると自負しているので、ご興味を持たれた方はぜひ本誌をご購入いただければ幸いです。


(以下、本文)

VTuberのゲーム配信の画面は、よく考えてみると奇妙である。そのVTuberがプレイしている、たとえばFPS(ファースト・パーソン・シューティング)だったらその名の通り、一人称視点のゲーム画面というものがあり、その四隅のどこかにLive2Dであったり、簡易的な3Dモデルの上半身があるという構成を基本的にとっている。

そのとき、ゲームをプレイしているVTuber本人の視線は、本来はそのゲーム画面のほうを向いているはずだ(ここでの「本人」は、いわゆる「中の人」的な意味ではない。3Dモデルが本体だったとしても、その視線はどこを向いているのかという話だ)。しかし、その身体はゲーム画面ではなく、視聴者側を向いているわけである。

視聴者の視線と彼ら彼女らの視線は決して交わっていないにも関わらず、交わっているかのような錯覚のもと視聴者は配信を観続けることになる。いや、正確には視聴者はゲーム画面のほうも観ているわけだから、そこでは異なる視線のベクトルが同居しているというか、現実的にはあり得ない特異な空間が視聴者の脳内で合成されているということになるだろう。

ここで、生身の人間の実況者の画面も同じじゃないかと思うかもしれない。ある程度はそうかもしれないが、生身の人間による実況の場合は、彼ら彼女らがまさに生身であるがゆえに、本人が配信している部屋の存在、実空間を同時に意識させる(ゲーミングチェアの背もたれが見えたり、モニタから反射する光が顔を照らしていたりする)。ひるがえって、視聴者も自分自身が今いる場所……自室だったり、もしくはスマホを使って外出先で観ている場合、その場所だったりが意識されるだろう。

そこには、離れた実空間が通信技術によって連結している、という了解がある。ゲームコンテンツを介しているとはいえ、そこで起きているのはビデオ通話の延長にしかすぎない、と言ってしまってもいいだろう。

これに対してVTuberという存在との配信画面を介した「出会い」の経験は、「実空間-身体」モデルで考えると、奇妙な時空のねじれを伴っている。このことに改めて驚いてみることから考察を始めたい。

〈レイヤー合成〉というクリエイティビティ

2022年、月ノ美兎のクリティカルな発言が話題を呼んだ。とある配信上での「でもVは絵だから心なんてないぞ」というコメントに対して、「わたくしが絵なら、てめえらは文字だろうがよ!」「一次元が二次元に何言ってんだ」と言い放ったのだ。

文脈を説明すると、このとき月ノ美兎がプレイしていたのは、疲れたメイドカフェの雇われ店長のもとに、彼が愛聴しているメイド型VTuberが「受肉」して甲斐甲斐しく世話を焼く、という……いわゆるギャルゲーである。その性質上、VTuberというものに対する自己言及的な発言が出やすい状況となっていた。

先述の「煽り」を書き込んだのが仮にファンだったとしたら、通常の配信では彼/彼女もそんな発言はしないだろうし、仮にアンチによるコメントだったとしても、無視すればいいレベルの他愛もない内容だ。

そんなコメントをわざわざ拾ってみせたところに、わざわざこんなメタなゲームを選んで配信した月ノ美兎の嗅覚の鋭さがあるわけだが、ここで暴かれてしまったのは視聴者という存在がVTuber側からしたらコメント=文字列にしかすぎないという事実である。

現実の人間同士がLINEやTwitterでテキストメッセージを送り合う場合、必ず送り先に自分の今いる実空間と地続きの空間があり、生身の身体を持った主体がいることが暗に了解されている(先述の、生身の配信者の配信を視聴する際のモデルと同じだ)。

一方VTuberの場合、コメントの送り先としての空間が不確定なものになるのである。「中の人」がいるかいないか、というのはそもそも問題ではない。「中の人」がいようがいまいが、いずれにせよコメントがどんな場所に送られるのかというのを、私たちはうまく想像することができないのだ。

したがって、その送り先はコメントが反映される配信画面上という次元に「とどまる」。そのコメントを配信主であるVTuberは拾うことができ、さらにその拾っている様を視聴者はVTuberの姿とともに画面として見る……という、再帰的なループが完成する。

VTuberと視聴者のコミュニケーションのすべては三次元的な空間を介することなく、画面上の合成として行われるのだ。私たちが三次元の空間にではなく、一次元的に存在しているというのは、このように配信画面こそを基礎的な場として捉えたときである。

この「合成」の実現には、技術的な背景がある。漫画原作者・編集者・評論家の大塚英志が新海誠のデビュー作『ほしのこえ』について述懐したテキスト「レイヤーの美学」(『EYESCREAM増刊 新海誠、その作品と人。』、スペースシャワーネットワーク、2016年に収録)は、そのことを噛み砕いて解説してくるテキストだ。

大塚はこのテキストの中で、アニメーションといえば登場人物やオブジェクトが「活き活きと動く」ものとされていたのに対して、静止画の断続的なカットアップや背景に対する人物のレイアウトによって特徴づけられる『ほしのこえ』はデジタル編集ならではの新しいアニメーションの価値観を示したのであり、その中心にあるのがレイヤーという概念である、という旨のことを語っている。

とはいえ漫画雑誌の編集者、のち漫画原作者というキャリアを歩んできた大塚にとって、このレイヤーという概念は馴染み深いものだったという。例として、漫画『ちいかわ』のある回を見てみよう。

出典:https://twitter.com/ngnchiikawa/status/1634201745000738818

1コマ目は主人公・ちいかわの一人称視点で、友人のハチワレが暮らす洞窟の入口を捉えている。2コマ目はカメラがちいかわの正面に移動してこちら側に歩いてくる様を捉え、3コマ目ではちいかわの内心を描写、4コマ目では再びちいかわの姿を客体として捉える位置(洞窟の中)にカメラが移動し、5コマ目ではちいかわとハチワレ・もうひとりの友人であるうさぎをフレームに収める三人称の視点になっている。

このようなコマをまたいだ視点=人称の移動というのを平然と行ってみせるのが、漫画というメディアの特性である。「コマ(世界を枠づけるフレーム)」「キャラクター(客体)」「フキダシ(内心の声)」がそれぞれ異なるレイヤーに属しており、それを合成することで作品を成り立たせるシステムが、柔軟な視点の移動を可能にしているのだ。

漫画の読者はキャラクターと感情を共有しつつ、同時に感情を切り離した、俯瞰的な状況把握も行うこともできる。ここで立ち上がっているのは「実空間-身体」モデルのどこにも対応しない、「漫画の読者」としか言いようのない主体性だ。

ゲーム画面とVTuberの姿を同時に視界に収める視聴者の経験も、これに似ているところがある。

〈レイヤー合成〉という観点から考えたとき、VTuberのクリエイティビティの核心は、本人のパフォーマンスやキャラクターデザインもさることながら、配信画面の設計にあると言える。ゲーム画面の枠を配信画面全体の外枠と一致させるのか、それとも入れ子構造にするのか。アバターはLive2Dを使うのか、3Dを使うのか。コメント欄を画面内に表示するのか、しないのか。レイヤーを合成することによって可能になる、さまざまなオブジェクトの配置による視線の設計が、視聴者とVTuberとの「出会い方」に大きく関わるのである。

VTuber自身によるリアルタイムでの〈レイヤー合成〉は、配信に使用するソフトの名前を用いてときに「OBS芸」と呼ばれる。その最もラディカルな事例のひとつとして、不破湊が2022年の8月毎朝行っていたラジオ体操企画に、剣持刀也がゲスト出演した際の配信アーカイブを挙げたい。

不破湊のラジオ体操企画では、緑生い茂る広い公園の画像を背景にセミの鳴き声をBGMとして流すことで三次元空間を演出し、そこに立った不破湊がゲストを毎朝迎える、という体で進行していく。場合によりまちまちだが、「にじ3D」と呼ばれる簡易的な3Dモデルの姿でやってくる者も多い。

そんな中、剣持刀也はLive2Dの、自分の身体とは別パーツの机のオブジェクト(プラス、机に乗せているように見える足のパーツ)とともに登場し、終始不機嫌なヤンキーのような態度を取り続ける。いざラジオ体操が始まると、中指を立てた腕のパーツだけが分離・増殖して空中に浮いたり、「いらすとや」でダウンロードしたのであろうヤンキーのイラストが画面を埋め尽くしたりと、実空間に体操をしに来た、という体を崩壊させるバグのような事態を引き起こす。

それを隠すように、仮想的な三次元空間に立っていたはずの不破湊も、自らの身体を平面的に操作せざるを得なくなる……これ以上は実際にアーカイブを観てもらったほうが早いだろう。

要するに、三次元の広場を仮想的に作るという不破湊のクリエイティビティに対して、あくまで平面の次元にとどまる剣持刀也のクリエイティビティが衝突し、次元間をまたぐ対立がひとつの画面上で合成されているのである。

異なる〈レイヤー合成〉のポリシーを持つ配信者がひとつの画面上で邂逅している……ここで起きている事態は、VTuber文化において中心をなす「コラボ」の本質を突くものとも言えるだろう。

(続きは『青春ヘラver.7「VTuber新時代」』で!)

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