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プラットフォームの「外部」はあるのか

思えば改名騒ぎのずっと前から「Twitter」の外側で見聞きしたコンテンツに関する言及をしても思ったような反応が得られない感覚はあって、具体的には聴いた音楽や見た展覧会の感想なのだが、「Twitter」というプラットフォームの求める共時性とはまったく離れた基準で触れるコンテンツを選んでいるがゆえに、そこで息をしている人々には引っかかりがない。有害というわけではないが、純然たる背景として、他の人のタイムラインには溶けているのかもしれないなと思っていた。

だったら確かに「いま、ここ」にある自分の生活を記録しようとして、そこから「ツイート」や「つぶやき」という言い方も解禁するようになった気がするが(それまでは律儀に「Tweet」「投稿」と言い換えていた)、何かそれも自分の大切な部分を削っているような気がして、座りの悪いものではあった。

なんだかんだ最近は徐々に「告知」「改名騒動それ自体」以外への言及も増えてしまっている気がするが、言及する対象はこのSNS発のコンテンツみたいなところがある「ちいかわ」と「にじさんじ」にほぼ限られていて、一応そこに線引きはある。要するに「改名騒動それ自体」への言及と同じく、このSNS自体への自己言及を含むような投稿であれば資本家の横暴に対する批判的なパフォーマンスとして機能する……かもしれないというエクスキューズを得ることができるし、以前「つぶやき」を試してみたときのような疎外感も感じないだろうということだ。

いまという時代はプラットフォームの提供するレールに沿って歩いたほうが、仲間(のように見える)自分以外の人たちの姿が見えて気が楽だ、みたいな時代ではあると思う。

自分は「にじさんじ」を追っているわけだが、「にじフェス」のような公式イベントの告知が出てもまったく食指が動かないことに驚いた。どうやら自分はYouTubeという誰にでも利用できるプラットフォームの上にそれぞれの活動者がチャンネルという一国一城を建てている、それらがたまさかコラボという形で離合集散するという動的ネットワーキングに、つまりはプラットフォームという無味乾燥な「場」の創造的な読み替えに、「にじさんじ」の魅力を感じていたらしいのだ。

しかし「にじフェス」のような「場」は、それ自体が多くの人を集めるプラットフォームになってしまっている。いや、「にじさんじ」はANYCOLOR社が掲げてもいる通り、活動者の(「卒業」も含めた)人生のステップアップを応援するプラットフォームでもあるわけだから、むしろ「にじフェス」のような場はその本来的なプラットフォームとしての性質を顕わにしただけだ、と言ったほうがいいのかもしれない(ファンとの交流ブースが設けられるなど、「にじフェス」は出演者側にも好評のようである)。

とにもかくにも「にじフェス」の情報が出て、公式番組のコメント欄やSNSで盛り上がれる人たちのことをうらやましく思う。自分は「プラットフォーム性」が顕わになったことをまず気にしてしまうし、それがひとつの「ハレの場」――つまり、「ゴール」のように演出されていることに冷めてしまうのだ。ANYCOLOR社の掲げる「魔法のような新体験」という社是とは裏腹に、自分としてはむしろ魔法が解けてしまったような気持ちだ(念のため言っておくと、これは「運営への批判」などではまったくない)。

「Twitter」の改名騒動にしても、新社長となった実業家の絶望的なまでの美的およびユーモアセンスのなさは当然のこととして、そのこと自体とはまた異なる虚しさを覚えるのは、プラットフォームというのはすべからく「X」に置き換えられる宿命を帯びていたのではないかと気づかされたからだ。

「Twitter」というのはWebサービスとしては稀なことに、プロダクトデザインに近い発想が隅々まで行き届いたものだった。インターフェースの配色やボタンの描く曲線の比率に至るまで、「こういう場面でこういう人にこういう体験をしてほしい」という思想が形態や色彩によって表現されていたからこそ、多くのユーザーを獲得した。「X」というのは単にそこに集まっている人間の(「質」ではなく)「数」だけを見た実業家による無味乾燥の象徴で、「プロダクト」から「プラットフォーム」になった近年の「Twitter」に、(皮肉も込めて)相応しい名前であるようにも思えてしまう。

「にじフェス」の今年のテーマは「主役になろう。」だという。これは一見、タレントもリスナーも分け隔てなく「みんなが主役だよ」という姿勢のようでいて、すべてを「みんな」という匿名的な存在に「個」を押し込める言葉だとも解釈できる(そして実際には、ファン→タレントという見る−見られるの非対称性は存在している)。

プラットフォームに敷かれたレールの上で物事を楽しむことができる人は、孤独感は覚えにくいだろう。「自分と似ている他人」が、その場所からはたくさんいるように見えるだろうから。

しかし個々の人間を定量的な「数」として見なすことによって成り立つ、プラットフォームビジネスの構造それ自体に疑問を抱いてしまう人は、自らプラットフォームの外に出て、実益はいったん度外視して「ものを作る」ということをするしかない。作ったものの宣伝のためにプラットフォームを利用することはあったとしても、そこで思うような反応が得られなかったとしても気にしないことだ。

自分はまさにそちら側の人間であると実感する毎日である。「作る時間を作る」ためには、結局プラットフォームに接触する時間を減らしていかなければならないだろうと、そう感じている。

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