宗教と運動会の話

宗教二世、という言葉を聞くと、小学生の頃出会ったとある先輩を思い出す。彼女は僕の1学年年上で、病的なほど身体が細く、四肢の長さがとてもアンバランスに見えたことを覚えている。

彼女との出会いは小4の5月。僕の暮らしていた北国ではちょうど八重桜が散り始めた頃だった。

その年、僕は季節外れのインフルエンザに罹ってGWをベッドで過ごす羽目になった。運の悪いことに回復具合もあまり良くなく、ようやく出停が明けたというのに、それからの1週間、僕は一切の運動を医師に禁じられることになる。それがきっかけだった。

5月の末に予定されている運動会の準備や練習が毎日のように行われるこの時期、僕は半強制的に級友の輪から外され、校庭の隅で見学をするよう言い付けられた。正直に言って退屈で仕方なかった。運動も得意ではなかったが、それでもぼんやりと座ったまま過ごすよりはマシに思えた。

そんな僕の退屈を払拭してくれたのが彼女だった。見学2日目に現れた彼女は、僕をいたく気に入ってくれた。

「私以外の見学者なんて久しぶりだわ!」

僕と同じように退屈していた彼女にとって、僕は最高の暇つぶし相手だったのだろう。僕と彼女は見学そっちのけでお喋りに興じた。とても楽しかったから、ずっとこのままが良かった。出来れば100m走も騎馬戦もやりたくなかったから。しかしあっという間に1週間は過ぎ、医師の許可が降りてしまった僕は級友の輪に戻されることになった。

最後の見学の日、僕は前から気になっていたことを彼女に訊いた。最後のチャンスだと思った。

「先輩はどうして見学してるの?もしかして、僕みたいにインフルに罹ったの?」

彼女はひどく困ったように笑って、「違うよ」とだけ言った。彼女の目があまりにも悲しそうで、けれどまるで何も映っていないような目が少し怖くて、僕はそれ以上訊くことを辞めた。最後の日は楽しくお話しがしたかった。

2時間ほどの練習が終わって教室に戻る時間になり、僕が立ち上がると、彼女は「また一人になっちゃうなぁ」と零した。その声が震えていることに気付いてしまって、胸がギュッと締め付けられるような感覚がしばらく残った。僕もまだ彼女と話していたかった。でも、教師は僕が見学することをもう許してはくれないだろう。彼女の言葉に畳み掛けるように「ごめんね」と告げて、僕は彼女の前から立ち去った。

翌週から何事もなかったように運動会の練習に復帰した僕には、時折校庭の端に座っている彼女を目で探す癖が付いていた。僕以降、彼女と時間を共にするような生徒は現れず、いつも彼女はどこか遠くをぼんやりと眺めていた。

彼女は一度も運動会の練習に参加することなく、運動会当日を迎えた。練習に参加していなかった分、余計に覚えることが多かった僕は、次第に彼女のことを気にかける時間が少なくなっていった。

運動会当日も彼女はいつもの場所に座っていた。保護者や生徒がごった返す会場の中、人混みをかき分けて僕は堪らず彼女に話し掛けた。でも返ってきた言葉は冷たいものだった。

「私に話し掛けないで」

ショックじゃなかったと言えば、嘘になる。僕は彼女とちゃんと仲良くしていたつもりだったから。動揺してその場から動けなかった。そんなとき、突然消えた僕を探しにきた友達が僕の腕を引っ張ってその場から連れ出した。

彼女から遠ざかりながら、友達は僕に向かって怒鳴る。

「あいつは宗教だから仲良くしちゃダメ!」

友達は普段、他人の悪口を言うような、あるいは友達を束縛するようなことを言う子ではなかった。半狂乱になっている友達が言っていたことを要約すると、こうだった。彼女の両親がとある宗教の信者であり、彼女もまた信者だということ。そして、その宗教のルールで運動会に参加できないということ。

当時の僕には理解出来なかった。宗教と運動会がどうしても結び付かなかったのだ。当時の僕にとって、宗教とは独自の行事があったり、みんなでお祈りを捧げたり、食べ物のルールがある程度の認識で、運動会を禁止する宗教があるなんて思いもよらなかった。

これは後で知ったことだが、彼女や彼女の両親が信仰していた宗教は、運動会そのものを禁じていたのではなく、誰かと競争をすることを禁止しているようだった。確かに彼女は小学校の陸上クラブに所属していたが、公式記録を持っていなかった。おそらく出場させてもらえなかったのだろう。

パニックになっている友達を宥めた後、僕は何事もなかったように運動会のプログラムを淡々とこなした。あの日以降、僕が彼女と言葉を交わすことは一度たりとも無かった。友達は、彼女が信仰している宗教は反社会的なもので、彼女と話したら僕が“洗脳”されてしまうと思っていたらしい。それが事実かどうかは別として、僕は結局、彼女よりも友達と仲良くすることを選んだ。だから彼女とは話さないようにした。

無知な子供だった僕にとって、彼女との出会いは、人生で初めて“宗教”なるものに直面した出来事だった。僕はそれを長い間忘れていた。彼女の寂しそうな表情が時を重ねるごとに薄れていくことにどこか安心していた。

あれから数年経ったある日、僕は陸上部に所属している妹の大会を見に陸上競技場へと赴いた。会場には小学生から高校生までがごった返していて、僕は帽子を深く被り直し、妹が出場する4×100mリレーを待っていた。プログラムを確認するとまだまだ時間がかかるようだった。眠気を覚えたその瞬間、あの先輩の名前と一字一句違わない名前が場内アナウンスで流れた。何かが背中を這い上がっていくような気がした。

なあ先輩。
僕にはバトンを握りしめて走っている貴女が本当にカッコよく見えたんだ。

伝える術なんて、もうないんだけどさ。



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