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【小説】ラヴァーズロック2世 #01「ノストセラス・マラガシエンス」

あらすじ
憑依型アルバイト〈マイグ〉で問題を起こしてしまった少年ロック。
かれは、キンゼイ博士が校長を務めるスクールに転入することになるのだが、その条件として自立システムの常時解放を要求される。
転入初日、ロックは謎の美少女からエージェントになってほしいと依頼されるのだが……。

注意事項
※R-15「残酷描写有り」「暴力描写有り」「性描写有り」
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※連載中盤以降より有料とさせていただきますので、ご了承ください。


ノストセラス・マラガシエンス


窓から吹き込む柔らかい風が締め切ったカーテンを揺らすたび、隙間から漏れる朝の陽差しが向かいの壁の上でチラチラと歌うように明滅している。

部屋の一角にある取ってつけたような石灰岩の壁は、夜の冷気をまだ十分に残しているので、朝陽がミニチュア版の天気輪の柱をおっ立てたくらいでは容易に温まらない。

炭酸カルシウムの白く冷たい宇宙。そこには美しく輝くアンモナイトの化石が散らばっていて、まるで宇宙望遠鏡から撮影された銀河団のようだ。

その化石の一つひとつは、わりとしっかりしたアンモナイトパイライトの完全体で、隔壁で構成された等角螺旋の数学的規則性が目に心地よい。しかも、当のシェル自体も見事にオパール化しているので、もはや手のつけられない美しさだ。

偶然と必然がほどよい割合で投げ込まれた自然律の鍋を、途方もない時間を費やして混ぜ合わせたせいで、そのほとんどが黄鉄鉱に置換されてしまった隔壁の内部。

そんなメタリックな色彩の中で、千々に砕けた宝石のようにきらめいている乳白色や淡いピンク色の水晶は、ノルニルの女神たちが仕上げのひとつまみとして振りかけたもの。

そう、雪のように真っ白な土や、ウルズの泉から汲まれた神聖な水を、ユグドラシルの木の上に撒くときの、あの踊るような優美な手つきでもって……。

風向きのせいだろうか、坂道を下る自転車のブレーキ音が今日はいつもより近くに聞こえる。

薄暗い朝の校長室。壁の前に立ちアンモナイトの化石を覗き込んでいるのは、転入生の少年〈ロック〉。

シュメール人風の瞳の大きな美少年で、一見ティーンエイジャーらしからぬ、妙に落ち着いた雰囲気を醸し出していてる。

この年頃に特有の、感情の境界線を綱渡りするような危なっかしさを、その表情や身のこなしから感じ取ることもできない。

覗かれていることを意識してか、アンモナイトたちはここぞとばかりに回転し始める。それはまるで銀河の渦のようにゆっくりで、よほど注意して観ないと気づかないほど。

観察者のいない真夜中、このアンモナイト=水晶の恒星たちはいったいどんな振る舞いをするのだろうか、と少年は考えてしまう。それは、馬鹿げた考えなのだろうか。

例えば、誰ひとりとして夜空を見上げていない瞬間、夜空に浮かぶ月は、はたして本当に存在しているのかどうか。もしかしたら、跡形もなく消えてしまっているのではないだろうか。そう想像するのと同じくらいに、愚かで子供っぽい考えなのだろうかと……。

応接用ソファに斜めに座りながら転入生の横顔を眺めているのが、この部屋の主である老博士、アレクサンダー・キンゼイ校長。長身でやせぎすの身体に、シミだらけの黄ばんだ白衣を羽織っている。

やむにやまれぬ思いで転入生の受け入れを自ら買って出たのだが、見てのとおり、身だしなみにまでは気が回らないタイプ。

そんなキンゼイ校長、かれは目下ロック少年の横顔、とりわけ耳下からオトガイにかけての美しいラインに魅了されていて、思わずため息を漏らしそうになっている状態なのだが、それと同時にどういうわけか、老いさらばえた妻の顔を思いだしている自分に気づいてしまう。

今朝ベッドからそっと抜け出したときに見た、妻の寝姿。今はもう、北極熊のようになってしまった妻の仰向けの寝顔。かれは知らず知らずのうちに、この目の前の美少年と年老いた妻とを比較してしまっているのだった。

ああ、男色の趣味はないのだけれど、妻と少年のどちらと添い寝したいかと問われれば、自分は迷わず、今、目の前にいるこの美しい少年を選ぶことだろう、などと……。

少年の目の高さにあるアンモナイトから、さらに上に向かって垂直にカメラを移動させると、石灰岩の壁は薄暗い天井に向かって吸い込まれるように続いていることがわかる。

そこは、いわゆる吹き抜けのようになっているのだけれど、光を取り込む構造ではなくて、上に行けば行くほど暗くなっていくという、奇妙な空間として創り上げられているのだった。

上方に向けジッと目を凝らすロック。壁から何かが飛び出しているようだ。
暗闇から覆いかぶさるように迫ってくる太い触手たちが見える。が、目が慣れてくると、それもまたアンモナイトの化石であることが次第にわかってくる。

かれらは、20世紀の古生物学者たちから〈異常巻き〉と呼ばれていた、白亜紀の終わりに大発生したグロテスクなアンモナイトたちで、細長く伸び過ぎてしまったゼンマイのようなものや、交尾中の絡み合った蛇にそっくりなものなど、そのありとあらゆる異形のバリエーションでもって観察者を威嚇していた。

「ノストセラス・マラガシエンス……マダガスカル産だ」キンゼイ博士が横から解説する。

ロックは博士を見つめ返すと、小さくうなずき、薄暗い天井をもう一度見上げた。

隆起した生命の痕跡が作り出す穴のように黒い影から、冷気が壁伝いに舞い降りてくるのがわかる。

それは、かれの濡れた眼球の表面を撫でるように流れ、鼻孔の中にまで入り込んできた。

湿気を含んだ石灰岩の匂い、生命不在の匂い、冷たい雨の夜の誰もいない駐輪場の匂いだ。

「そろそろ出発しようか……」

キンゼイ校長は、ソファに深く沈み込んでいた腰を勢い良く上げると、先に歩き出した。

つづく


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