見出し画像

2023/01/10

今日でネット配信を始めて16年目になった。お恥ずかしながらというべきか、めでたくと言うべきか、わからないぐらいの年数になったけども、ダラダラと続けていたものがここまで続くとは思わなかった。これもひとえに応援してくれたり歪な形で見守ってくれたりする全ての人々のおかげだと思う。心から感謝。

冬になれば辺り一面真っ白になる北海道の田舎に生まれた僕は、当初ネットというものがあまりにも刺激的で、脳が弾けるような衝撃を得たのを覚えてる。あるネットラジオを聞いて「こんなんだったら俺のほうが面白いことが出来る」と調子に乗って始めたものがまさか人生の半分も続くと思わなかった。配信とデザインは飽き性の僕が珍しく続けられている特例なのである。なぜ続けられたのかを考えていたけど、どちらも面白いからであって、辞めようと思ったことは何度もあるけれど、結局続けている。というか、去年の年明けぐらいは本気で辞めようと思っていた。もう良い歳だし、僕のような老害がいつまでも席に座っていては後から始める方々の邪魔になってしまうのではないかと思ったし、何よりも本気で人生を考えなければならなくなった。正直なことを言うと、今までネット配信で得た金銭は今までデザインで得た金額の7分の1にも満たない。時間と精神的余裕は失うし、楽しくなければやってられないことなのである。
別に「同級生も結婚しているから」とかそんな月並みな理由で辞めようと思ったわけではない。そもそもスローペースで生きてる人生だから、自分のペースは自分のものだと思っている。常に正解を決めるのは自分。だけど、それにしても、やはり生きていてブチ当たる壁は「カネ」の問題である。中にはネット配信でお金を稼いで暮らしている人はいるし、それは凄いことで尊敬に値するけど、結局のところ大半は若さの切り売りなのである。ほうれい線が目立つ中年になったときに求められる何かがなければ、人間は死ぬまで生きていくことは出来ない。
僕の中で若さを切り売りするという選択肢は無くて、どんなときでもデザインや技術は手放してはならないと思ったし、トーキスキルは磨かないといけないと心から思っていた。更にはその技術に依存してはならないと思った。本当に手放してはいけないものは既に持っているものだから、それを見失ってはいけないと心に誓い続けて、目の前にある面白いものを飢えて求め続けた結果が今だ。

周りからは「いつまでやってるんだ」と言われるし、「デザインだけで生きていけばいいのに」と未だに言われることがある。僕も同じ考えを持つことはあるけど、それでも続けている。すごくドライなことを言ってしまうと、それは決して応援してくださる皆様のためではなく、自分がそこに何か答えがあると思って探し続けているからだ。少しずつ時代の斜陽は傾き始めて、うすらうすらと真っ暗な時代が近づいている感覚が、現代人なら誰しもが持っていると思う。そんな中で生きるうえで必要ないことをするのが凄く人間的だと思ったし、ダサくて美しいと思った。まさしくそれは恋愛のようなもので、ただツガイを作って子供を生むのではなく、生物学上必要の無い時間を過ごしてそれに浸りながら子孫を残していったり自分の好きな人と一緒に暮らしたりする。人間って無駄をこよなく愛する生き物なんだと思う。芸術だって言語だって、ただ生物が生きるうえでは必要ない。だけども人々が固執するのは人間としての理由があるのだと信じて疑わない。

人間として生きることは、人間として死ぬことよりも難しい。理論的ではなく感覚的なセンスを磨くために人と関わって、芸術に触れたり、映画を見たりしなければならない。それを失ってしまえば人間の出来ることなんて全部機械にやらせてしまえばいい、という時代が来てしまう。文明が完成に近い時代だからこそ、人間的な無駄の愛し方を知らなければ、本当につまらない生き物になってしまう、という恐怖心が20歳ぐらいのときに芽生えて、未だにその考えは変わっていない。

だからただデザインを作ってカネを得るのではなく、配信というものを通じて時代と人間の理解を深めたいし、だからこそ配信というものを文化として残したい。それは人間という生き物として目指すべき地点だと思うし、当然の責務だと信じて疑わない。別にそれは配信じゃなくても構わない。だけど僕の場合は配信だった。今は配信というものを通じてライブをしたり、歌ってみたり、取り留めのない話をしたりしている。

他人から「くだらない」と言われるたびに、自分のしていることは正解に近づいていると僕は信じて、今日もネット活動をするのです。
くだらないことも出来ない人が、一番くだらないと思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?