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魔法を信じなくても|星街すいせい『ビビデバ』MVと乃木坂46『僕は僕を好きになる』MVの比較

VTuber星街すいせいの『ビビデバ』という楽曲のMVはこちら側とあちら側の越境を描いている。一体何が「こちら」で何が「あちら」なのかは今はあえてぼかしておきたいが、その越境は「VTuberとは何なのか」ということを逆説的に浮かび上がらせているように思う。画面の向こうの世界と僕たちの生身の世界の境目を分かりづらくするようなこうした試みは、僕たちに改めて彼女の存在の仕方を認識させているといえる。考えるまでもなく、VTuberは常に実在の不確かさのうえに立っている。たとえば星街すいせいの存在は必ず何らかのメディアを通さなければ成り立たないし、もし(こういう表現がVTuber界隈に角の立たないものになるのか不明だが)「中の人」が何の説明も無くあなたの目の前にいたとしても、見た目や名前が違う人間をただちに星街すいせいその人であると言い切ることは難しいはずだ。そして、そのような実在の掴みきれなさはアイドルも似ている。ここではいったん分かりやすく「アイドル」と書いたが、ひとことでアイドルといってもその内実は実に多様であり、それを知っている僕には軽率に一括りにして語ることはできない。ここではひとまず乃木坂46に話を限定したいと思う。
改めて自分のことを書いておくと、僕は乃木坂46のオタクだ。追いかけ始めてもう十年以上になる。不思議なことにそれだけの時間、彼女たちのことを見つめていても彼女たちのアイドルとしての実存がどこに立脚しているのか分からず、ことあるごとに考えてしまう。彼女たちはあらゆるメディア・環境を通した先に存在している。テレビやラジオはもちろん、目の前に本人が現れるライブであってもステージというある環境のうえに立つことで彼女たちはアイドルとして存在している。そこには見る者と見られる者という絶対的な関係に基づく独特な存在の仕方がある気がする。いつものようにそんなことを考えていた折、たまたま下記の記事を読んだのだった。

この記事によれば『ビビデバ』MVは現実の中にVTuberである星街すいせいを置くことで、そして僕たちにこの映像を見るという行為をさせることで、彼女の「3次元ではない」という存在感をむしろ際立たせている。星街すいせいはそのようにして自らの存在の仕方をこちらに問いかけているのかもしれない。もしそうであれば、見るものと見られる者の関係もしくはその存在の仕方そのものをVTuber(星街すいせい)とアイドル(乃木坂46)の共通点として取り上げることができるのではないか。そしてさらに、そうした両者の共通点とそれを探す過程で同様に見つかるだろう両者の差異からそれぞれにとっての「存在すること」について考えることができるのではないか。
と、上記のことを𝕏に書いたところ、アイドルオタクでもありVTuberのオタクでもある口寄せさん(@summonedmonster)が反応してくださった!これは折角の機会だということで、今回お力を借りつつひとつのnoteとしてまとまったものを書いてみることにした。流れとしては第一節をVTuberとアイドルの構成要素、第二節を視聴者にとってのVTuberとアイドルの在り方、最後に第三節をまとめとして、第一節と第三節を僕が書き、第二節を口寄せさんに書いていただいた。

ということで改めてこのnoteの概要の説明になるけれど、今回は『ビビデバ』MVと乃木坂46『僕は僕を好きになる』のMVを比較する。なぜ『僕僕』MVなのかといえば『ビビデバ』MVと構成の類似があるからだ。この作品は乃木坂46のメンバーの日々の活動の様子を一歩引いた視点で何重にも描くことで彼女たちが「アイドルをすること」についてメタ的に映している。両MVの共通点としてVTuber・アイドルの存在の仕方そのものを映すこと、それを疑うことをテーマにしているように感じるのだ。

第一節:それぞれの構成要素を考える

存在することについての整理

まずはこのnoteにおいて星街すいせいと乃木坂46が存在するとはそれぞれどのようなことを示しているのか整理しておきたい。また、前提として特にVTuberについて彼ら・彼女らがいかにして成り立っているのかというのは視聴者によってあらゆる受け入れ方があると思われるが、このnoteではそういったそれぞれの感じ方を無視する意図はないということも加えて明言しておく。
結論からいえば、本noteでは雑誌「フィルカル Vol.7 No.2」に寄稿されている『「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?』にて山野弘樹氏が主張している「穏健な独立説」を採用する。これはVTuberが存在するにあたって一体どのような構成要素を持っているのか説明するものだ。

(……)「穏健な独立説」を採用するメリットとしては、先行するVTuber論の中でも最も有力候補であった「両立説」であってなお明晰に説明することのできなかった「XというVTuberは、配信者AおよびアバターBが相互作用することによって現れるXである」という直観を拾いつつ、さらにそこで現れる「VTuberX」なる存在の独立性をアイデンティティ論の観点から擁護することができるというものである。

フィルカル Vol.7 No.2 山野弘樹『「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?』

まずここで書かれている「両立説」とは配信者(「中の人」)とアバター(いわゆる「ガワ」)がともにVTuberの本質的な存在であるとする考え方だ。この考え方はVTuberを構成する要素をシンプルに取り出しており、説得力がある。ただ、引用元にも書かれているように「両立説」は視聴者の前に結果として現れるVTuberというひとつの存在の中に、演者とキャラクターというまったく別物の要素が内在していると僕たちに認識させる可能性があることに注意する必要がある。それは必ずしも視聴者の日々のVTuber鑑賞の実態に即してはいないだろうと思われる。それに比べて「穏健な独立説」は、配信者(「中の人」)とアバター(「ガワ」)というバラバラの要素がバラバラのままそのVTuberに同居していると考えるのではなく、その両者が重なり合った存在として視聴者の前に現れるVTuberのすがたというものがあり、そしてそのすがたをそれ単体で独立したアイデンティティ(存在)として認めている。単なる「中の人」でも「ガワ」でもないいわば第三の存在を示しているこの考え方はVTuberの存在の不思議に触れており、魅力的なものに見える。ともすればこの考え方は同様に存在の不確かさのある乃木坂46のメンバーにも類推できそうに思える。では、乃木坂46におけるアイデンティティとはどのように考えることができるのだろう。
当然のことながら乃木坂46においてはその実在が問題になることはない。乃木坂46のメンバーは皆、実在する人間である。つまり彼女たちは僕たちの前に現れる際、外見的な意味での「ガワ」を纏うことはない。(ここでは彼女たちの着る衣装の問題はいったん置いておきたい。)
しかし「ガワ」を纏っていないとはいえ、彼女たちはいわば「素」のまま僕たちの前に出てきているわけではない。これについて難しく考える必要はないだろう。ただ、このことをもう少し突っ込んで考える際に「穏健な独立説」で用いられている「アイデンティティ」が参考になる。それによればVTuberにはVTuberとしての(複数のアイデンティティからなる集合としての)ひとつのアイデンティティが生起するとされる。これを踏まえて生身ではあるが「素」ではない乃木坂46メンバーのアイデンティティを仮定してみると、彼女たちはアイドルとして鑑賞者から認識される各メディア・環境において外見的な「ガワ」こそ纏っていないが、アイドルとしての振舞いをおこなういわば精神的な「ガワ」を纏っているとは考えられないだろうか。これは(ここでは内容については深く突っ込まないが)生身のメンバーの振る舞いとアイドルとして求められる振る舞いが相互に関係し合って生まれる「アイドルとしてのアイデンティティ」と捉えることができるものであり、VTuberがVTuberのアイデンティティによって存在していることと同じようにアイドルがアイドルとして存在するために必要不可欠なものであると考えられる。VTuberもアイドル(乃木坂46)も、現にそこに存在しているのは確かな事実だ。しかし、僕たちの目に映るその存在は果たしてどのようにして存在しているのか。それを説明しうるのがこのアイデンティティ論なのではないかと思う。
さて、簡単にではあるが両者にとっての「存在すること」について整理したところで具体的に2本のMVを見比べてみたい。

MVの比較

この作業の目的は下記の通りだ。

  1. 『ビビデバ』MVと『僕は僕を好きになる』MVの要点を確認し、星街すいせいと乃木坂46がそれぞれどのように映されているのか確認する。

  2. それぞれの作品において存在について語られていることを確認する。

それでは両MVの内容を確認しつつ、要点を探してみる。

星街すいせい『ビビデバ』MV

このMVの特徴といえば星街すいせいと監督の衝突だ。星街すいせいはシンデレラを模した映像の撮影をしているのだが、撮影の合間、監督は彼女に無理な指示を出す。監督の態度は常に尊大であり、自分こそがこのコンテンツの中心的な制作者であることを誇示しているように見える。普段、VTuberは基本的に自室から配信をしていることが多いのではないかと思うが、それによって僕たちはなんとなく彼女たちがあくまで自主的に発信(作品制作)しているという印象を持っているのではないかと思う。本MVでは真っ先にそうしたVTuberの、作品制作においての主体性を否定してみせている。ここでは彼女はプロデュースされた存在であり、そしてこのスタジオにおいて星街すいせいは特別な(=2次元的な、架空の)存在なのではなく、あくまで当たり前に存在する出演者の一人として扱われている。また、彼女の周りで踊っている者たちも彼女と同様に2次元的な見た目をしているが、その衣装はスタッフが描くことで用意されていることも、彼らがそうした実在の(3次元の)撮影と同じような準備を経ることで初めて煌びやかな「2次元」になれることを表している。

このような「出演者としてのVTuber」という表現は映像のフックになっているし、それによって本noteのはじめに書いた「越境」のさまを僕たちは感じる。しかし、これには僕たちにあることを見過ごさせるような狙いがあるのではないかと思う。それはそもそもこのようにして越境する星街すいせいのことを僕たちがその初めからごく自然にある程度の三次元的存在として認めているということだ。MVの最初のカットはたとえば彼女のスタジオ入りでもなければ3次元のスタジオに2次元的なセットを作成する光景でもなく、すでにカメラを通して演出を付けられている彼女の姿だ。それは僕たちの生活する普段の風景にVTuberが入り込んでいるというひとつの衝撃をあえてスキップして、役者である星街すいせいの実在を前提にしたドラマを描くことを意図している。(この「役者」とは上述のアイデンティティ論における配信者という意味ではなく、「中の人」と「ガワ」が合わさって生まれた「星街すいせい」が改めて受け持っている役割、仕事のことだ。)

存在する彼女の悩みは現実の中で解決される。

最後、横暴な監督にとうとう愛想をつかした彼女はスタジオを飛び出して私服のまま踊る。自分を縛るものから開放されたようなその姿は多くの人間によって制作される「星街すいせい」ではなく、星街すいせい個人とでも呼ぶべきものだろう。これは一見、視聴者の普段見ている彼女の存在を曖昧にするような複雑な状態に見えるが、「穏健な独立説」はこれを整理してくれる。つまり、最後に一人でカメラを回して踊っている存在は「中の人」の単純な表出でもなければ役者の顔の部分に「ガワ」を被せたテイとしての(「ガワ」に存在の優位がある)星街すいせいでもなく、「中の人」と「ガワ」の合わさった確固たるアイデンティティを持つ「星街すいせい」個人である。彼女の存在はすでに確立されているのだから、首から下が3次元の誰なのかはもはや関係ないとすら言っても良いだろう。視聴者はそのようにして踊る彼女のすがたを見て、なんら疑う余地もなくそれが彼女自身であると認識できるはずだ。
このMVは星街すいせいというVTuberにとって焦点をあてられるべき問題がその実在にはないことを表している。彼女が視聴者に投げかける問題は「VTuberは果たして存在するのか」ではなく、「VTuberとはどのように存在しているのか」である。

乃木坂46『僕は僕を好きになる』MV

このMVの特徴は「撮影風景を撮影する」という構図だ。映像は最初、彼女たちのほかのMVと同様にごく普通の楽曲のMVとして始まるが、次第にカメラが引いていき、それがMVを撮影している風景を撮影しているものであることが示される。カメラはそのままMVの撮影を終えて移動車に移る彼女たちを映して、続いてメンバーの山下美月が帰宅して夕食をとる場面になるが、それもすぐにドラマの撮影であることが明かされる。このような調子で彼女たちが次から次へと「映される仕事」を移動しているさまが「撮影風景を撮影する」カメラによって映されてゆく。最終的にカメラは素朴に考えれば第三者に見られる場面とは考えづらい楽屋やダンスの練習風景すらも映す。一見してこの移行は不自然なように感じるが、この段になると彼女たちの活動を知っている視聴者は普段から彼女たちの様々な活動がメイキングとして撮影されていることを思い出すことになる。そうして、彼女たちのアイドルとしての活動の境目が分からなくなっていく。

楽屋やレッスンの風景は明らかに第三者に見られるための構図になっている。

この映像を通して描かれているのは彼女たちにとって一体どこからどこまでが「見られるもの」なのかという、倫理的な問いかけなのではないかと思う。そもそもが実在する彼女たちにとって、カメラを通して「見られる時間」はすなわち全てアイドルとして彼女たちが存在する時間となる。このMVで取り上げられているようなシーンのみならず、たとえばライブの練習で上手くいかず塞ぎ込む、ダンス中に転ぶ、緊張で涙が溢れる、本番前に手足が震える、このようなステージ外の振る舞いは果たしてアイドルの振る舞いとして視聴者に見られるべきものなのだろうか。アイドルとしての彼女たちの存在(アイドルとしてのアイデンティティ)は、そのようにして彼女たちの日常の振る舞いに無遠慮に接近していく。
生身の彼女たちに起こっている「アイドルとしてのアイデンティティ」とは非常に曖昧なものなのだと思う。納得感のある「穏健な独立説」を借りても、僕には彼女たちのことを上手く表現することができない。これについての説明は改めて正面からおこなわなくてはならない。しかしながら、ここでは確かに「アイドルであることとは一体何なのか」ということについて投げかけられていると思える。

存在の仕方についての比較

両作品を見比べることで、それぞれ似たモチーフを扱いながらも描かれているテーマは異なることが分かった。

  • 『ビビデバ』MVで描かれているのは星街すいせいという「存在する者」が制作物としての「星街すいせい」と乖離してもアイデンティティを失わずに存在できるという証明である。

  • 『僕は僕を好きになる』MVで描かれているのは乃木坂46という実在する人間の集団を一体どこまで制作物としての「乃木坂46」として扱いうるのかという問題である。

最後に2つのMVの終盤を比較して一旦のまとめとしたい。『ビビデバ』MVではスタジオから飛び出した星街すいせいはそれでも星街すいせいであることを失うことなく、みずから自分自身の映像を残す。

ガラスの靴が無くとも彼女は彼女自身である。彼女の存在はガラスの靴によって定まるものではない。彼女はアイデンティティを失うことなくこれからも自らの意思で発信活動が出来るし、確固たる「星街すいせい」として存在することができる。

『僕は僕を好きになる』MVはそれまでさまざまに撮られ続けていたメンバーがもう一度、MV撮影のためにスタジオに戻ってくるところで終了する。

乃木坂46は一年を通して楽曲をリリースし続けている。「MV撮影からMV撮影へ」というのは彼女たちの活動を端的に表しており、楽曲制作の間にあたる期間にも彼女たちは常に、そして手づからではなくとも映されている。そのようにして彼女たちは「乃木坂46として」存在している。

以上で両者の構成要素については終わろうと思う。次節では口寄せさんにバトンタッチして、彼女たちを鑑賞している視聴者にとって彼女たちとは何なのか考えてみたい。

第二節:コンテンツ自身、本人自身

??「12時まで魔法は解けない、ガラスの靴は脱ぎません!」



「ここからは時間外労働です」

はい。どうも口寄せです。

NIGHT HIKEで未知のビビデバを浴びて気持ちよくなっていたところ、しらとりさんがツイートされているのを見て合作を仕掛けさせて頂きました。

『僕は僕を好きになる』を持ち出してくるのがなんとも弊TLの乃木坂ファンというか、痺れますね。

この2つを並べて自分の頭に浮かんだことを書いていきます。

①歌詞とMV間の飛躍とその意図

MVを撮る人は、当然曲をまず(デモ音源であれ)聞き、そこからイメージを作っていくものと思われる。

近年の乃木坂の制作スピードの中でそのへんの順番がごっちゃになる例があるとか無いとか専らの噂だ。

が、『僕は僕を好きになる』『ビビデバ』については、しっかり歌詞を聴き込んだ上でそれとは別の、いや延長線上の次の話を展開しているように思える。

※いち解釈程度にお読みください。



・『僕は僕を好きになる』の歌詞

ここでのストーリーは「自意識の檻から離脱して、"一歩引いてみる"ことによって自分を好きになれるかもよ」という話だ。

現代的な課題(issue)として、"SNS断ち療法"的な文脈を連想するのも良いだろう。大Twitter時代のアイドルには付きもの、というか全ての現代SNSユーザーがネット的自意識の問題と向き合っているはずだ。

しらとりさんの本楽曲MVへの
"どこからどこまでが「見られるもの」なのかという、倫理的な問いかけなのではないか"
という記述も、この文脈だと自分は受け取った。

だがここでMVを見ると、上で整理されている通り(タイトルである)「自己肯定」の話から離れ、「どこまでがアイドルなのか」ひいては「私ってなんだっけ」の話が軸になっている。

せめてビビデバの話をしろ(ツミキだから許せ)

好きになるべき"僕"は、どの文脈の"僕"なのか。



『僕は僕を好きになる』MVではまるでメッキを剥いでいくように、「という夢を見たのさ」→「という夢を見たのさ」→「という夢を見たのさ」……と続いていく。

そしてその果てに"真の山下美月"があるのかというと、またMV撮影のシーンにループするという形でこちらを嘲笑うかのような構成になっている。イザナミだ!!



この時点でめちゃくちゃ"ガワ"の話に近接している気がするが、『ビビデバ』の方も見ていく。



・『ビビデバ』の歌詞

おしゃまな馬車 飛び乗ってDRIVIN'
あたしは大変身メイクアップ!
我儘のまにまに 燦きに注意
洒落な街でDANCIN'
左様なら グッバイ劣等感
何時かは 喝采クラップオウデエンス
皆皆 御唱和あれ!

混絡がっても仕様が無い
ガラスシューズで踊るTONIGHT

『ビビデバ』の歌詞はシンデレラを、特に魔法で変身するところを軸にしている。

ガラスシューズを履いて、日常のことは放りさって踊ろうぜ!!的な曲である。

テイストとしては、『Start over!』をポップにした感じ。
シンデレラは意地悪な姉たちの下で働いている中、ある日突然降ってきた魔法を期にスカッとジャパンもびっくりなシンデレラ・ストーリーをキメる訳である。



歌詞としては大体上記で完結しているというか、ポップさと痛快ぶり、聴き易さがウリであり「歌詞考察」みたいな仰々しい代物ではないと思う。
(『Start over!』も同様に、深読みするまでもなく「オマエも明日からガラスシューズを履け」以上の何者でもないと思ってる)



ではMVはどうか。

しらとりさんが総括した通り、「VTuberはどんな存在か」を意識させるような、突然実写を持ち出したり"仕事"っぽい描写を挟んだり、メタ的な作品と言っていいだろう。

何故こんなことをしたのか考えてみた上で思いついた仮説なのだが、

Vにとってガワはコンテンツに"下駄を履かせる"ための手段なのだろうか?

を問いたかったんだと思う。

ガラスシューズを投げつけられる監督

つまり、この歌詞のストーリーをそのままVTuberがやってしまうと

「貴方が可愛いのは、バーチャルだ(魔法がかかっている)からですよね??」

という主張になり、このMVの制作陣はそうは思わなかった 違う話にしたかった  ということのはず。



シンデレラはあくまで降ってきた魔法にあやかる話で、シンデレラ自身は術師ではない。(日頃の善行が報われた、という見方もあるだろうが…)

VTuberも、たまたま生まれた時代にバーチャル技術があっただけの凡夫で、それですら自分で描いたり(技術的に)実装したりは出来ない個人が今や大半を占めるのかもしれない。
イラストの外注も、かんたんVチューバーデビュー用アプリも、サッとアクセスできる時代ではある。

ところで、皆さんは自分の顔面を作ったことはあるだろうか。





せいぜいメイク、ファッション、あっても自分の名前(ハンドルネーム)ぐらいじゃなかろうか。自分で考えたのは。



デカい企業のオーディションでVTuberになる場合や、その他諸々あり得るだろうが、ゼロから自分を構築していく経験を経たVTuberだって居るはずだ。
そこには自分以外の監督も、下駄を履かせてくれるガラスシューズも無い。

もちろんツールに恵まれた時代だったり、既に前例がいくらでもある時代性という環境はあるかもしれない。

でも「AIが何でもやってくれるんでしょ??」の精神で何かを出力できるかというと、そうではない。何の入力も無く出力を得ることは出来ない。機械なので。



バーチャルの身体に乗っかりなんとなくラクして稼いでいそうな人たちも、様々な下調べをし、外注するなら外注するで方方に連絡を取り、初配信に最適なタイミングを検討しているかもしれない。



そういう意味で、ガワは御本人の内面の結晶と言えるのではないか。




②他者から見たmeと、selfについて

とまぁ色々書いてみたが、「オシャレで自己表現♡」とか「仕事で自己実現」とかと言ってるコアは変わらないような気もする。

『ビビデバ』に引き付けて言えば、

・どんな監督と仕事をしたいか

・仕事場でどんな態度をとるか

・どんな曲が、どんな服が好きか

の全てが「星街すいせい」のselfを構成しており、それは視聴者である我々、或いは仕事で関わる人々からも観測可能な形で現れている

ということではないか。

つまり選択した全てが選択主体であるselfを後づけ的に規定し、他者から観測された「私のした選択」全てがmeを規定する。

selfがあるから選択できる(selfは選択に先行する) のはそうなんだけど、self像を言語的にどうこうしようとすると後づけ的になるしかない。

『僕は僕を好きになる』で言えば、虚像や嘘っぱちに見える全てもselfが選択した立派ないち要素だよね。と言いたい。嫌なら今すぐアイドル辞めるなり、あるいは嫌でも簡単には辞められない(と感じる)ことにその人のselfが色濃く出るんじゃないの?と思う。



"どこからどこまでが「見られるもの」なのかという、倫理的な問いかけなのではないか"

については

どんなに倫理的にあろうとしても、「消費していいよ」とお出しされたものだけを消費するに留めようと努めても、

「消費されて良い」範囲を決める主体の判断 をこちらが観測する限り、めちゃくちゃ深いところまで実は提供されていることになるのではと思う。

中の人ではなくキャラを消費させるタイプのVTuberであっても、「そのキャラで行こう」と選択した誰か、最低でもその企画に参加しようとした本人の選択はこちらに開示されている。



2024/5/1 追記

selfとmeについて、急に出してきて特に後立も無いので少し補足します。(まぁ原則としては「こういう深夜ツイートしたい気分だったんだな」のライブ感を文字で残す趣旨なので、ぼくがどういう気分かが伝われば十分)

meについてですが、自己・他己をベースにしたイメージで言っています。G・H・ミードという人が色々書いていると思います。が、そこでは(というか一般的に)meと比較されるのはI(アイ)です。

selfって何だよという話ですが、
VTuberの中の人にとってVとしての自分ってIなのか?
という視点で、セルフイメージ・セルフブランディングみたいなイメージを借りて敢えてselfと書いてみました。

でもself=バーチャル体 I=中の人 という論ではなくて、VTuberとしての振る舞いの中での選択主体として、キャラクターと中の人が重なるよね と言いたい。
だからVTuber・アイドルとしての舞台上での振る舞いが完全に本人と切り離されることは不可能だと思う。

③おまけ

唐突ですが、昔アイドルとして推していて、今は尊敬する年上のお姉さんYouTuberになった松井玲奈さんの話をさせてください。

こういう芸能のお仕事をしていると、
何となく、なんて言うんですかね、"人ならざるモノ"として見られる瞬間が多いんですね。
電車に乗ってきました って言っても、「電車に乗るんですか!?」みたいな。

上記動画 7:50 付近(字幕無しのため、表記は本noteに依存)

この人自身アイドルの頃はnote冒頭のシンデレラを思わせるキャッチフレーズで活動していた人なのだが、ある意味「シンデレラもガラスの靴を脱げば只の人」であり、そもそもガラスの靴を履いていようが元は人なんだということを今になって思うなど。



今はもう元アイドルな訳だが、シンデレラは王子様と暮らす中できっとガラスの靴は履かないと思う。
寧ろガラスシューズの君を好きになったのであれば、「普段はどんな靴を履くんだろう」と妄想する王子様ぐらいが丁度良いのではなかろうか。

山下美月さん、卒業おめでとう。
君は君を好きであれ。





以上、口寄せパートでした。

第三節:まとめ

ここまで考えたことをまとめてみよう。僕は星街すいせいと乃木坂46がそれぞれVTuber・アイドルとしてどのような要素でもって存在しているのか両者のMVおよびそのテーマを比較して考えた。口寄せさんの方では両MVを比較して「なりたい自分」としてのVTuberを出発点として我々視聴者には星街すいせい・乃木坂46がどのように映っているのか考えてもらった。今回noteを書くにあたって「存在の仕方について書く」ということだけを決めて内容については口寄せさんに丸投げしてしまったのだけど、それが結果として功を奏したのか同じテーマを扱いながら別の視点からの展開となったのは良かったと思う。
ひとくちに「在り方」といってもかように異なる視点がある。このことは至極単純ではあるけれど実際の日々のVTuber鑑賞もしくは乃木坂オタクとしての活動の多様さに対応しているといえるのだろう。されとて、そのようにしてこのnoteをまとめてしまってはあまりに及び腰だ。

このnoteを書くきっかけとなった記事をもう一度読み返してみる。ここではあえてVTuberを「異物」と認識しなおしながら、そうした違和感が認識されることを織り込み済みでその存在をアピールする星街すいせいのすがたが読み取られている。
「異物」がその生まれ持った気持ち悪さから逃げることなく、しかしそうして手にしたのがとどのつまり2次元でも3次元でもどちらでもいいと言えてしまえるような「凡庸な」演出であったのかもしれないというのは、やはり彼女が3次元の背景の中に溶け込んでいるということを鑑賞者が不自然に思わないという前提があっての読みだろう。誰でもできる凡庸な演出に元来2次元的である彼女が収まるということは「星街すいせいは自分と同じ次元に存在している」ことを自然のこととして受け入れているということではあるまいか。そしてこれ自体を疑う余地はないと、ここでは結論づけたい。彼女の実在は何かの理論でもって確立される前に、彼女を見つめる者のほかでもない実感によって今この瞬間にも証明されている事実だ。
あらためて、第一節では過去に書かれた論考から引用してVTuberを構成する「中の人」と「ガワ」の相互作用によって生まれる固有のアイデンティティを仮定して、さらにそこから類推することで舞台上の乃木坂46メンバーをいわば「素の自分」と「立場(肩書き)としてのアイドル」の相互作用による存在であると仮定した。(余談だが「素の自分と社会的地位の相互作用によるその場所における自分」的な考え方は僕が引用した文章において使用されている考え方の元ネタの方に近づいている。つまり考えていることが先祖帰りしてしまっている。)そして第二節では「me(結果的に鑑賞者から見られていると自身が想定する自分)」および「self(なりたい自分)」という用語を用いて鑑賞者が実際に受容している舞台上のすがたを仮定した。
両者に共通している考え方は「舞台上に現れている存在は何かしらの作用によって特別な対象になっている」ということだ。僕たちは、これはもしかすれば実に当たり前の感覚になるかもしれないのだけれど、舞台上の彼女(これは星街すいせいのことでもあり、乃木坂46のメンバーのことでもある)を特別な存在として見ているといって良いのではないか。そして特別な存在として見ているから、自然な存在(つまり「そこに在る者」だ)として見ることができているのではないか。つまり、僕たちは方法の別はあるにせよ「在る」ということを認識している。「在る」ということは疑いようがない。これは納得できる判断停止ではないのか。ここにおいて僕たちはこの非常に素朴な「在り方」に立ち返ることになる。この「在る」という言葉はなんて普通で、同時になんて神秘的な響きを持つのだろう。そして、この極めて感覚の世界において仮定抜きですぐさま断言できる事実があるとすれば、それは「彼女(たち)の目にも僕たちの目にも同じ世界が映っている」ということではないか。それはつまり間主観なのだと、それらしい言い方もできるだろう。とにかく電子の海(なんて陳腐で凡庸な表現だ!)からであれ、舞台のうえからであれ、彼女(たち)は僕たちの日常であるこのどうしようもなく退屈な世界を共有しているのであって、それは「同じ世界を見ている」となんとも簡単に一言で表すことができる。「彼女は僕たちと同じ世界を見ている」。これ以上簡潔に彼女たちの存在の仕方を表す言葉は無い。

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