椋康雄『抒情詩人留想譚』クロスレビュー

S評出品作:椋康雄『抒情詩人留想譚

評価 持田:可 高橋:× 東郷:× 高瀬:△ 波野:× 

持田 泰 評価:可  

椋氏の祖父たる「埋もれた詩人」と、ちょうど僕の言う「第0世代」たる横山青娥(1901年生まれ)を絡めながら大正昭和詩壇について僕が見ている相とは違う相から描いている評論風エッセイである。もっとも中野重治が見捨てる「幻想詩派」「回想詩派」に属する一派ではあり、僕の見て居る相から眺めると沸騰する時代の脇を通り過ぎていった群という印象は読む前から否めなくある。それをいい意味でひっくり返してくれるかと期待して読んだ。のだが、正直に言うと現状では個人史にとどまっている。まだなぞる程度の情報しかないので判断がつかない。そのため「可」とした。ただここはこの手の史実を持ち込まざる得ないものの難しさを知っているので、端的に「情報」関しては心から今後に期待したい。また椋氏が祖父を通して探査されようとする領域の「詩と童謡」において例えば「コドモノクニ」周辺というのは僕が取り上げる村山知義や古賀春江というアヴァンギャルド系も大いに交わった「近代」の或るポイントにあたる。当時の詩人はあまりにも名前もまたその動向すらも完全に埋もれているのが現状であり、何はともあれ踏査の手は今きっちり伸ばすべき領域である、今やまともに「詩史」を語っていこうとするような人は極端に少ないので、お互い希少種としてエールを送りたい。また作品の印象として、僕はこの「祖父の詩集との国会図書館デジタルコレクションでの出会い」こそ現代における価値のある「詩」であるなと思えた。その感動は「優」である。全ての人が祖父の名前を一回NDLサーチを掛ければコンテンツを「孤児」のままにせずともすむかもしれない。その可能性を感じ、またもしかすれば椋氏自身の作品を遠い将来広大なネットの海から孫が見つけ出すかもしれない。


高橋文樹 評価=×

血族の話で重要となるのは、なぜその血族について語らねばならないかという必然性である。それがこの話にはなかった。団塊世代をターゲットとした「自分史」や「家系図」ビジネスの餌食とならないことを祈る。また、長い。


東郷 正永 評価=×

当時の詩壇、詩誌文化の話は大変興味深いのですが、なぜそのなかで椋正隆氏の話に注目するのか、という部分がどうにも弱いような。血縁である、というのは読み手にはあまり関係ないので。おそらくこの後、当時の詩の世界とそのサンプルとしての椋正隆氏、みたいな話が来るのだとは思うのですが、そもそも読者に向かって「これを読むべきだ!」的な燃やすモチベーションの生気が足りてないなー、と感じました。


高瀬 拓史 評価=△

 だから何?以上の感想が出てこないあたりが良い。


波野 發作 評価=×

横山信寿氏と椋正隆氏の接点を示し、詩雑誌文化のある側面に光を当てたところは面白くもあり、興味深いものだったのだが、肝心のところで話が途切れ、老人のその後を語って終わってしまった。期待した分、落胆も大きい。横山氏と椋氏の接点は雑誌の編集と投稿者であることと、横山氏が手がけていたと思われる詩集の自費出版事業で、顧客の序文に寄稿したということだけでしかないかもしれない。そうなのであれば軸足を正隆氏の功績に置いて、インターネットもテレビもラジオも無い時代に「詩雑誌」というメディアが地方在住の在野詩人にとってどのような意味を持っていたのか掘り下げた方がよかったのではないだろうか。情報量は十分にあり、内容的には△でもよかったが、ノビシロを考えてあえて×とさせていただいた。

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