奇跡のアニメ『グラスリップ』についての自分のツイートをとりあえず纏めた(2017年1月修正版)

■7月25日

「グラスリップ」、実験作なのか、それとも素なのか。エンタメの教科書に記載されている内容を、すべて逆にするとこんな感じになるだろうという作風。作品の方向性が何も見えず、群像劇としても非連続的に過ぎる。何と言うか、ループものの、ループ直前の絶望感がずっと続いている感じ。とても奇妙だ。


■8月5日

あ、アニメね。今期、野崎くん、アルドノア・ゼロ、グラスリップ、残響のテロルはフルで追ってますよね。で、グラスリップ、これは何なんですかね。別に観ててうおお!ってなんないし、話ヤマもオチも方向性もないんですよね。岡田磨里か竹宮ゆゆこをやろうとして間違えた感じなんですよね。

しかしね、『グラスリップ』、前衛性を最初から狙ってるのかもしれないですよね。それでね、僕は考えてみたんですよ。この凪あすやtrue tearsの出来損ないみたいな作品の実験性はなんなのかって。話は詰まらないというか存在しないし、キャラは魅力的じゃないのに何か見ちゃうんですよ。

それでね、暫定的に思ってることなんですけど、結果的にこの作品は「現代詩をアニメ化しよう」というぶっ飛んだチャレンジに行ってる気がするんですね。まずね、ストーリーとかおかしいんですよ、未来が見える設定は特に活かされないし、30分の中に主題みたいなものも入ってないし。物語否定感です。

キャラもね、仲良し四人組がいるところにダビデくんていう中二病の権化みたいな奴が混じってきてドロドロすんのかと思ったら、ダビデくん、単独行動してばっかなんですよ、そもそも輪に入ってないんですよ。こいついなければとらドラ!的世界に行けるんじゃね?的なんですよ。

ヒロインの挙動とかもおかしくてね、一回「どうも」って言えば済むのにその後「あ、どうも」って続けたりする。意図が見えないんですよ。ダビデは常にやばいし、メガネ少女は男部屋に連れ込んでカミュのシーシュポスの神話読ませるという謎プレイやってるし、考えがまったく読めない。

なので最初に思ったのは、グラスリップのキャラは全員サイコパス的に描かれてんじゃね、ってことなんだけど、よくよく考えると話やキャラだけじゃなくて演出もおかしいんですよ。ただの電車とか、男キャラが座ってるシーンとかが、感動的であるかのように止め絵+特殊光で描かれる。

要約するとですね、アニメなのに断片しかないんです。台詞もそれっぽい中二的なものをただ喋らせて、演出も必要な部分を盛り上げずどうでもいい部分を過剰にする。散文の作り方じゃなくて詩なんです。しかもロマンを追うわけじゃなくて、精神異常的に千切れてるから現代詩的なんです。

マジでね、ちゃんと見ようとすればするほど、「制作者が何考えてるか分からん!」って叫びが裡から来るんですよ。でも別にダダっぽく無意味な方向に行くわけでもなく、何かを伝えようとしているのは分かるんですよ。もう自分でも何言ってるか分からんけど、そんな感じなんですよ。

重要なのはですね、「どうやらこのイカれたキャラたちは自分たちの関係性や存在する世界のルールやコードを理解しているらしいけど、視聴者はその精神構造、演出の意味が理解できない」ってことなんです。その断絶の表象がグラスリップの核なのではと、そんなことを現時点は考えています。

■8月6日

いやでもね、仕事はするんだけどね、これグラスリップ、アルドノア・ゼロと比べるとすっごい対称的なんですよ。アルドノアは虚淵さんが脚本やってるのもあって、スキがないんです。ちゃんと方向性が見えるし、それこそ未来が予測できる。ところがグラスリップは、主人公とヒロインにはどうやら未来が

見えているらしいけど、視聴者である僕らは彼らの見ている世界がまったく理解できないんですよ。完全なるインナーワールドで台詞と世界が展開されていて僕ら孤独なんですよ。それはね、彼らはセカイ系を生きてるけど僕らは「他人のセカイ系を眺める」ポジションになるってことで、何か怖いんですよ。

そろそろ自分の日本語が論理的になってるかも怪しいけど、グラスリップはそんな感じですよ。こっちの言語感覚まで壊れる的なんです。最終回後に単なる糞アニメと思ってるかもしれないけど、少なくとも僕は制作陣の意図を自分なりに掴んだと思うまではこの謎アニメを観てしまうと思います。

トーコとかおかしいやん。男の家電にかけて、本人か確認せず父親に一方的に喋っちゃうとかヤバイやんw RT @ryu0037: @ssakagami いや、なんだか自分が思ってたモヤモヤとかを代弁してくださったかの様な呟きでした。 凪あす見てないので凪あすとは比較出来ないですが…

ダビデの狙いが分からないうちはもやもやして切れない。彼はなんなの、俺と君に世界の運命がとかいきなり言い出しかねないよ RT @girlsaid: @ssakagami それなのにじゃあクソアニメだもう切る!ってならないところがグラスリップの一層わからないところだな、と感じてますw

グラスリップ観てる人多くてワロタw いや、みんなもっとアニメの話しろよ! 最近沈黙を決め込み過ぎだろ!!

不意に思ったんですけどね、そもそもアニメの大半って、断片で作られてますよね。原画と動画という非連続的なものを、テクノロジーによってあたかも連続性を保持したものであるように見せるわけですよね。そうするとね、グラスリップ、非連続性を演出、キャラ、物語にまで拡張しているとも思えますね。

いかん、本当にやばい、さらばツイッター界。しかしグラスリップ、「考えるな感じろ!」でもないんですよ。それはピングドラムとか、筋は明確に語られないけど演出やキャラの効果が理解できる場合に使える台詞でしょう。グラスリップは個々の要素が一定の目的を持ってない、全体性から逃げてくのよ。

まるで俺がグラスリップを称賛しているようだ。

■8月8日

グラスリップの6話、凄すぎて言葉が出ないよ。30分の中でひとつとして理解できる演出がなかった。5話がピークかと思ってたけどまだまだヤバくなるのか? ダビデ、「俺、見つけたのか?」って訊かれても、俺たちはおまえを見失っていくばかりだよ。

@girlsaid なんでトーコはさっちゃんのことをダビデに相談しようとしたんかな……

@girlsaid うあー、ごめん!もし答え見つかったら教えてw 今回、トーコもえええしか言ってないけど、ダビデのヤンデレ化がヤバいよ。

俺、グラスリップ、好きなのか?

うーん、色々思い返してみたけど、やっぱり過去の作品で観たことある中に、グラスリップと同じような感触のものってないな。アニメ体験として新しいのは確か。ちょっと近いものを探すと出崎版AIRなんだが、あれは謎の止め絵が共通してるだけで楽しめるものではなかったしな。

もうさ、ユキが鏡の中の自分にオスって話しかけてる演出の意味を理解するまでも20秒くらいかかるんだよね、全部そんな感じなのよね。RT @girlsaid: @ssakagami まともに観ててもあまり流れもロジックも読めないので逆に大丈夫ですw

@girlsaid 今回1番やべえと思ったのは、未来のカケラって、もともとあったもんじゃなくて、ダビデが自分で勝手にネーミングしてたことが明らかになった瞬間。

グラスリップでツイッター内検索すると、マジでみんな「わけわからん」の連呼。しかし俺も含め、みんなわかんねーと言いながら3話切りしないで6話まで来てるわけですな。何かあると信じたいですな。

■8月22日

『グラスリップ』の世界について端的に説明するとですね。命題A「私は美術準備室で告白されました」 命題B「美術準備室には未来のカケラがあるようです」 ここでA⇒Bが成立するのがグラスリップ。俺たちの生きる宇宙とは異なる法則が大量に動いている場所なのだ。

ここ2話で『グラスリップ』に起きたことを少し書いてみます。ダビデは3人に分身して自分と会話します、スク水中学生が自転車で高校生を追いかけます、ヒロインのひとりは裸族です、サイコレズが純粋な少年を利用します、危険ドラッグなヒロインには夏でも雪が降ります。

おそらく『グラスリップ』の1話を観た段階で、多くの人は「ああ~、true tearsの世界でサークル内恋愛やるんやね~」とか思ったでしょうがまったく違います。サークラかと思われたダビデはフェイクで、実際には初めからサークルはクラッシュしているし、みんなが行くべきは病院です。

俺が盛ってるかと思うだろ?残念ながらこれでも抑え気味に書いてるんだ。RT @samepacola: すごい、何が起こってるのかさっぱりわからん RT @ssakagami: ここ2話で『グラスリップ』に起きたことを少し書いてみます。ダビデは3人に分身して自分と会話します、スク水中

ちょっと穿ったような言い方になっちゃいますけどね、『グラスリップ』を見るとね、押井監督の『天使のたまご』とか、ちゃんとしてるなあって思っちゃいますよね。退屈さとか不穏な空気とかも、ちゃんと計算された演出の中にあるよなって思います。

そうだな、たとえば初めてヘンリー・ダーガーの絵を見た時の感覚を想ってほしいんです。自分に備わってない感覚で世界を把握するやり方に人は崇高を感じる。しかし、絵画とは止め絵です。動画の世界で異常を表現するには絵がおかしいだけじゃ駄目なんです。『グラスリップ』、アウトサイダーアニメです

真っ当に考えればですね、今期のアニメで観るべきものを2つ挙げろと言われたら「月刊少女野崎くん」と「アルドノア・ゼロ」になると思うんですね。異論はあるかもしれんですが、この2つが糞アニメと言われることはまずないだろうと。

まず「野崎くん」に関しては、単純にエンタメとしての完成度が高い。メインヒロインの千代ちゃんに90年代りぼん的意匠を纏わせつつ、しかし実体としての少女漫画を実行するのはヒーローである野崎という構造。それに加え、内面がヒロインのイケメンや、宝塚フェイクの美女など、キャラの役割が明確。

そうした愉快な仲間たちとの日常が、少女漫画作成に回収されていくという隙のない構造。「けいおん!」で何も起きない日常としての日常系は究極まで行っちゃった以上、結局は物語回帰というか、日常へのアクセントを思考するしかない。その点で野崎くんは最適解どころかパーフェクトに近いと思われです

そして「アルドノア・ゼロ」。あおきえい×虚淵玄×志村貴子という超絶面子による作品。あまりにもロボットがぬるぬる動くので、正直画面観てるだけで興奮できちゃうレベルです。何考えてるか分かんないけど有能系な主人公イナホくんと、ドMポジにはまりすぎなスレインくんとの今後が見もの。

しかしですね、そうしたハイクオリティな作品二つを差し置いて、一個だけ今期のオススメ教えてと言われたら、僕は迷わず「グラスリップ」挙げますね。名作かどうかは知らないけど、アニメを観ていてこの世界が溶けていくような感覚に浸れるってことは中々ない。円盤ではなくリアルタイムで観たい。

■8月29日

どう言えば伝わるんだろう。「ウチ、新しい自分になるの」⇒「今でも可愛いのに!?」⇒「もっともっと!」。パッと見、繋がってるように見えるけど(文字として)、音にされた時の違和感ハンパない。そしてこの微妙な違和感を高めて濃くして繋げていくと「グラスリップ」ができます。

「グラスリップ」といえば止め絵演出。しかし本来、止め絵って動いてるシーンを止めるわけですよね。いわば運動性が存在する箇所を強引に停止させて、状況の重要性を強調する技法ですよね。ところが「グラスリップ」、今週になっていよいよ誰もいない壁と手すりを止め絵にしてきました。高度ですね。

昼寝してたら、とうとう夢にまで「グラスリップ」が進出してきた。未来を見る者を消す時の番人を自称する和服で目つき悪い美少女が平和な村の仲間たちを次々と惨殺し、残されたダビデとトーコが命乞いする話。本編に比べてなんと凡庸な展開。

■9月19日

ところでグラスリップ。俺が「このアニメ病気だよ」って最初に言ったのは5話だったと思うけど、それも今は昔、12話まで何も失速することなく「人類には早すぎたアニメ」として走り続けてくれている。いやこれさ、なんで企画通ったの?脚本は何を考えてるの?などなど無限の疑問が湧いてくる。

もはや煽ってる場合でもなんでもなくグラスリップ、俺はアニメを観ていてこれほど自分に自信が持てなくなるというか、世界の非安定性に怯えるというか、つまりは例の陳腐な言い回しを使えば理解不可能な他者が圧倒的に現前する瞬間に立ち会うことになるとは思わなかった。

もうさ、グラスリップ、糞アニメとかそういうレベルじゃないんだよ。糞アニメなら見なければいいだけでしょ。しかしグラスリップ、作家の意図がこれほど読めない作品に出会うって、アニメだけでなくどんなジャンル探してもそうそう機会ないよ。22分の中に理解できるシーンが1個もないんだよ?

されどグラスリップ、人類はきっとこれまで色んな方法を用いて、不安ってやつを芸術に昇華させようと目論んできたよね。その観点でいくと、グラスリップより不安の制作に成功した芸術ってないんじゃないか。今週、とうとうダビデだけじゃなくて他の人も分身した瞬間にこれはもう異界のものだと思った。

なんともグラスリップ、人間が作品作る時にさ、キャラクターたちにディスコミュニケーションが発生するとしたらそれは大抵演出であって、視聴者や読者が「ああこの人たちはコミュニケーション苦手なのね」って思うものじゃん。だけどこのアニメはさ、コミュ障にコミュ障を重ね掛けしてるんだよ。

その結果さ、俺たちが一般的だと思ってるコミュニケーションの方が間違ってるというか、物語から疎外されていくんだよ。12話までグラスリップを見てる人間なら俺の言ってることが判るはずだ、自分がおかしいのかって感覚になるだろう。

どうにもグラスリップ、キャラたちのディスコミュニケーション、スタッフの思考が読めないことへの恐怖、世界観がまったく安定しないことへの慄き。その全てが絡み合って、圧倒的な他者性を纏ったアニメが立ち現れる。大げさに聞こえるだろうか、いや、観れば分かる。本体はもっとヤバイんだ。

そうしてグラスリップ、なんと来週最終回らしい。何も本編解決してないどころか、不思議だけが増殖してる状態だが、きっとそういう作品なのだろう。俺が言いたいのはただひとつで、この作品は面白いとかつまらないとか糞とか覇権とか名作とか駄作とかそういうレベルでくくれる何かではなく、

グラスリップ、映像体験として絶対的に決定的に確実に人間の感覚を狂わせる新しい何かになっているので、何がなんでもリアルタイムで観るべきってことです。観てない人は来週までに12話一気に見よう。これはとにかくヤバいんだ、けど、きっと後から観ても駄目なんだ。今しかない、今観るんだよ!!

「アニメあんま見ないんよね~」と思ってる人、一度だけ俺を、いやグラスリップってやつを信じてくれ。この世界にはまだ異常ってやつが残ってるし、それを表現する技術が人間に備わっていることが判る。だって12話まで観てキャラの思考が何も分からない作品なんて他にあるか?アニメ以外でもないだろ

1年後、誰もグラスリップの話をしてないだろうし、俺もまた「そんなのあったねー」とか言ってる気がする、いや、多分言ってる。そういう作品なんだ。でもこの瞬間、グラスリップは世界そのものなんだよ。期間限定の万物理論なんだよ。ロンギヌスの槍があるよ、ここにあるよ。言いたいのはそれだけだ。

まったくもってグラスリップ、俺が推せば推すほどネタのように見えてないか?ネタじゃないよガチだよ。どう伝えればいいんだこの切実さを、あと一週間しかないんだよ。何年か経って布教すればいいとかそういう話じゃまったくないんだよ。

生まれたての小鹿みたいなもんだけど、俺も物書きというかいわゆる小説家ってやつをやってるわけで、虚構を愛してるんだよ。で、2014年9月25日までしか味わえないだろう芸術が転がってて、それを宣伝しないでいるってことはできないんだよ。書けば書くほどギャグ漫画日和みたいになるけどマジよ

普通に考えれば円盤も売れないだろうしこの先話題にもならないよ。それでもグラスリップ、このリアルタイムで圧倒的な他者性に触れるって経験は人生でそう何度も転がってるもんじゃないと思うの。演出もホンもキャラも全てが遠いんだ。人類にはこういうことができるんだって、それを大勢に見てほしいよ

哲学的ゾンビからグラスリップを思考しようとしたけど多分無意味だ。哲学的ゾンビは「心がないのにあるように見せる」技術を極めた連中だけど、グラスリップのキャラクターはヒロくんを覗いて「心がないことを隠そうともせず動く」人たちだ。心のない奴らが必死に人間の真似をしてるドラマとも言える。

グラスリップはバンダイチャンネルに入会すると見放題です。http://www.b-ch.com/ とりあえず今月だけ1000円払っとけば最終回に間に合うってことだよ! 来週までに全話観よう! たかだか5時間程度で奇跡が貴方の頭上に降り注ぐんだぜ。

※僕はグラスリップから一銭も受け取ってないので回し者でもステマーでもないということを信じていただきたい。

■9月26日

まったくグラスリップ、とうとう昨日最終回を迎えたわけだけど、これといって感慨も驚きもない。というのも、そもそもがクライマックスに向かってモチベーションを高めるタイプの作品ではなく、粉々になった脚本が断片として漂うのを眺めるアニメなので、基本どの回でも同じようなものなのだ。

まあそれをグラスリップ、いいことと思うか悪いことと思うかは個々人に任せたいが、少なくとも俺は以前書いた「ひょっとしたらグラスリップは現代詩をアニメ化しているのでは説」に則り、よいことと思っています。しかし、最終回はなにはともあれ、解答編としての意味合いが強かった気がする。

言い換えればそれはグラスリップ、初めてスタッフが何をやろうとしていたのか、その意図がわずかだけど見えたってこと。答えはコーヒーとテントにあった。みんなでコーヒー、しかもマンデリンを頼むシーンは、少年少女が背伸びして大人の飲み物を頼む箇所なわけで、単なるブレンドじゃ駄目なんだね。

だからこそ、さっちゃんが「みんなでコーヒーなんか頼んじゃったからなのかな」と言ったりもするグラスリップ。これは以前、ダビデがウーロン茶を頼んで「置いてないよ」と言われたシーンとも共鳴していて、ウーロン茶=子ども、マンデリン=大人という図式も明確。グラスリップで一番理解できる演出。

そして、ダビデのテント。ラストシーンでダビデのテントはなくなってて、どうも「そもそもダビデ自体幻だったんじゃね!?」というネットの反応もあるが、そうじゃなく、あれは単にダビデがテント暮らし止めて、すぐ隣の自分の家に入ったってことでしょ。

ダビデが何故テントで暮らしてるのかは最大の謎だったわけだが、振り返ってみれば「それをカッコイイと思ってたから」以外の理由はない。したがって、ラストで子どもじゃなくなったダビデは、もはやカッコつける必要もなく、親と同じ家で暮らすという自然な環境に還っていったわけですね。

こうして振り返ってみて、ようやくグラスリップが何だったかってのは簡潔に言える。綺麗な言葉を使えば、「子どもと大人のあわいに置かれた少年少女たちが見る不安定な心と幻想の物語」、もっとざっくり言えば「行き過ぎた中二病がサイコパス化して視聴者にディコミュニケーションとして伝わる芸術」

でもねグラスリップ、俺やっぱり好きだったよ。頭がおかしいとか、思春期のメンタルってやばいねってことをメタ化してないじゃん。たとえばさ、アニメ「サイコパス」ってのは異常をメタ化するからこそシビュラシステムのような発想に行けるわけじゃない。視聴者もそれを冷静に見れる。

ただ、それは異常についての解説が自動的に物語に組み込まれるってことでもある。しかしグラスリップの場合、解説が入る余地がないので、異常が異常のまま視聴者に飛んでくる、そして理解できないことに困惑する。観察も観測もできず、自分たちが異常の当事者となる。

グラスリップ、意志を感じたよ。大人の視点に回収せず、頭のイカれた思春期の魔法を、視聴者を子どもにしたまま=現場においたまま体験させようって感じで。トーコは「未来を見る能力」なんか持ってなくって、それは思春期によくあることって母に言われちゃうんだけど、それは大人だから言えるのよね。

おそらくダビデが3人に増えてたのも、大人にとっては「よくあること」なんだろうけど、ダビデにとって、そして強制的にダビデと並行的な位置に置かれた俺たちにとって、彼は実際に三人に分身してたんだ。なぜなら、「実際にそう観えた」からだ。

色々な表現はできそうだ。「日常系の世界にセカイ系要素を入れた」とか「めだかボックスのように思春期という限られた時間の夢を描いた」とかね。だけど俺は、グラスリップの最大の意義は「怖いものは怖いし理解らないものは理解らない」ということを視聴者に身体と精神で感じさせたことだと思う。

最後におまけ的な話。グラスリップ、アナグラムとしては「ラグスリップ」、「lag slip」なんですね。「ズレが滑る」、つまりデリダの「差延」ですね。僕らが「グラスリップ」と言葉にする時、すでにそれに先立つ関係性が存在する。なので、僕らはグラスリップを語れない…そんな妄想も、したよ



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