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560河井事件の余波 買収された選良の刑事責任

 3年前2019年の参院選で、地方議員や首長に大々的に現金を配る選挙違反をした河合夫妻。候補者であった案里被告は懲役1年4月で3年の執行猶予、夫で買収を主導した元法務大臣の克行被告は懲役3年の実刑が確定している。民主主義の根幹を揺るがす違法であるにしてはずいぶん緩い判決だと感じるが、日本の司法関係者の民主主義に対する認識程度はこの程度ということだろう。
 買収はカネを渡す側ともらう側がいて成立する。渡した側は有罪になったが、もらった側はどうなったか。100人という空前の規模で、しかも地方議会の議員や自治体首長という、民主主義社会において主権者である国民の代表として、選挙で選ばれた者たちだった。彼らに対して検察官は一人も起訴しなかった。
 それでは民主主義は死んでしまう。ということで市井の人たちで構成される検察審査会が、カネを受け取った議員等100人のうち3分の1の35人起訴すべきと議決した。これを受けて東京地検は改めて起訴手続きをとったが、そのうち25人は非公開の書面審理で済ませる略式起訴だった。つまり正式に起訴されたのは9人だけ。

 これについて批評は3通りに分かれるようだ。
A説 検察審査会をもっと尊重すべき:検察は強大な権力を持っている。民主主義社会では、権力の集中による害を防ぐため、どの分野でも民主的コントロール手段が必要である。有権者の中から無作為で選出される検察審査会はその一つであり、そこで起訴すべきとしたのであるから、検察はそれに従わなければならない。裁判は公開が原則であるべきであり、非公開の略式起訴で済まそうとする検察の不服従への厳しい対応が新たに必要だ。
B説 司法界全体が民主主義擁護にもっと真剣になるべき:。政治がカネで左右されることの是非を問う格好の材料である。近年でも統合型リゾート(IR)収賄、鶏卵汚職など枚挙にいとまがない。票も政策もカネで売買され、政治の世界ではそれが当然視されている。憲法が「人類普遍の政治原理」とする民主主義はこの状態でいいのか。法秩序の守護者たるべき検察を含む司法界の生ぬるい体質見直しが必要だ。
C説 司法独自の論理を尊重すべき:検察審査会を意識しつつも、検察官はカネを配った方だけに処罰を求めればよいとした。事件そのものを闇に葬ったのであれば格別、そうではないのだから、検察官の判断を尊重し、外部から異論を差し挟むのは控えるべきだ。検察審査会といえども同様である。指揮権発動のようなことが起きる可能性を少しでも残してはならない。検察官は民主主義の暴走の抑止制度なのだ。

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詰まるところ司法分野において、有権者の声をどのように反映させるかということ。個別事件の判決そのものを有権者が多数で決めるのでは、共産主義者のお手のものである人民裁判による死刑などが常態化する。そうさせないための仕掛けが民主主義社会の裁判制度で、司法の独立と形容される。そうは言いつつも、民意の反映も必要ということで、陪審制とか裁判員制度が併用されている。
またアメリカの州政治などでは検察トップの検事長は、市長などと同様に有権者の選挙によって選ばれる。そして検察官人事を行い、個別案件でも検察官を指揮している。すべての州がどうかは知らないが、テレビドラマを見ているとシカゴが所在するイリノイ州などではそうなっている。
検察審査会の構成員は一般有権者のうちから無作為抽出で選ばれる。学歴や職業は問われず、資格試験もない。その点では国会議員候補者と同じである。民主主義社会なのだから検察審査会の決議にもっと拘束力を与えていいのではないか。検察がズブの素人の意見に振り回されるのはよくないというのであれば、運転免許のように、検察審査会委員に対する研修をきっちり行い、修了試験に不合格の者は正式選任しないことにしてはどうかとも考えられる。
義務教育段階での学校でのディベート題材としてふさわしいテーマだろう。「政治家がカネを授受することの是非」といった表象的な議論では民主主義は深まらない。「国民の代表として心身を捧げようとする決意した者がなぜカネを配って票を得ようとするのか。なぜカネをもらって政策を左右するのか、その抑止が必要であるとするならばどういう仕組みを整えるべきか」を次世代の有権者に考えさせることが、教育の基本でなければならない。
その理由は簡単。教育基本法は「(日本国憲法の精神である)民主的で文化的な国家を更に発展(させるため)、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期する…」と明記しているのだから。

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