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220527橋本佐内 国難打開策を説いて死罪

平泉澄先生の『物語日本史』を読んでいる。徳川将軍家のために良かれと思って幕政を壟断したが、結果的には江戸幕府の終焉への道筋をつけることになったのが、彦根藩主で譜代大名筆頭格であった井伊直弼(なおすけ)。政敵を次々と弾圧した(安政の大獄)が、最後は自身が江戸城桜田門外で襲撃され、その首を晒されてしまった。それが万延元年(西暦1860年)3月3日、降りしきる雪の中でのことである。
余談だが、現在のロシアで権勢をふるうプーチン大統領とロシアの先行きを想像してしまった。
 安政の大獄のいきさつは学校でも習い、映画演劇の題材にもされているから、あらましはだれでも知っているだろう。安政の大獄で処罰された者は、上は公卿・大名から下は浪人まで数え上げればきりがない。そうした中、刑死した者の中で最も惜しい人物が二人いると平泉先生は言う。
 それが吉田松陰(通称寅次郎)と橋本景岳(けいがく)(通称佐内)。松陰の業績は説明するまでもないと思う。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」の辞世を残して斬首されたが、そのとき30歳。橋本はそれよりもさらに若い26歳だった。若い課長として福井県庁に出向した折り、当県には幕末時代に橋本佐内という大人物がいたと繰り返し聞かされた。今にして思えば、その時点のボクはすでに彼の享年を超えていたことになる。
『物語日本史』で橋本佐内の業績を追ってみよう。福井の藩医の家に生まれたが、学に打ち込み、わずか15歳で『啓発録』という心得書を著している。16歳で大阪の緒方洪庵(こうあん)に入門し、西洋医学とともにオランダ語を自由に読み書きする能力を身につけている。
 福井に帰って藩医になったが、藩主松平慶永(よしなが)は佐内の能力を藩政に用いるべく大抜擢する。当時の福井藩は水戸の学校講道館を模範として明道館を創立していたが、左内はそこに西洋の学問を取り入れた。また時勢は、開国か攘夷か、将軍の跡継ぎは慶喜(よしのぶ)か家茂(いえもち)かで、朝廷も幕府も諸藩も割れていた。左内は藩主の命を受け、各地を奔走することになる。それが安政4年の8月のことで、翌5年7月に慶永が井伊によって失脚されたことで、左内も活動禁止。その期間はわずか1年。閉居謹慎の後、翌年10月江戸伝馬町の獄で処刑されている。左内が国政に関与したのは24歳から25歳の間。現在の制度では国会議員にもなれない年齢だ。その若さで西郷隆盛や幕府の要職者で切れ者として知られていた川路左衛門尉(さえもんのじょう)(聖謨(としあき))に会って所信を述べ、感服させたのだという。
 以下、『物語日本史』からの引用。「それではその、西郷を心服せしめ、川路を屈服せしめたところの、景岳【橋本佐左内】の国難打開策はどういう内容であったか、といいますと、だいたい次の通りです。(一)外交問題。鎖国ということは、もともと道理にもかなわず、そのうえ今日の情勢では不可能に属する故、断然国を開いて、世界万国と交易し、忠孝仁義の教えは、自ら固くこれを守るとともに、外国にもこれを教え、その代わりに物質文明、精密機械は外国より採り入れるがよい。いよいよ開国となれば、外交方針を立てなければならないが、そのためには世界情勢、この先、どう動くかを見極めなければならぬ。自分の考えでは、将来国際連盟ができて万国手をつなぎ、戦争をやめる方向に進むであろうと思われるが、その場合、国際連盟に指導的位置を占めるものは、まずイギリス、もしくはロシア、この二つの内であろう。さて日本はどうすればよいかというに、孤立することは危険である。もし孤立したいならば、朝鮮、満洲、沿海州を併合し、さらにアメリカ、もしくは印度【インド】に植民地をもつ必要があるが、西洋諸国がすでにそれらの地方を占領している以上、これは今日不可能に属する。孤立は危険であるとなれば、どこか一国と同盟するがよい。その同盟の相手国としては、イギリスか、ロシアが考えられえるが、もし日英同盟ができる時は、必ず日露戦争が起り、逆に日露同盟ができれば、当然日英戦争が起るであろう。国を開く以上、それまでの見通しと覚悟とが必要である。」(二)以下略。
 その後の世界の推移を見通している。真の学問者の能力を垣間見ることができる。凡庸な専制者が有意の人材を抹殺したのが安政の大獄であり、危うく国をも亡ぼすところであった。その犠牲になったのが松陰や左内だが、身は滅びてもその思想を引き継ぐ者が輩出して、明治維新につながった。

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