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アラブの春を思い返して

ドバイに来た。13年ぶりくらいに。4日弱滞在して、率直な感想は「意外と進化してねぇ」。笑
レストランや娯楽の選択肢は増えたと思うし、来る前に期待値を上げ過ぎたのかもしれない。あと、億万長者とか一部の人しか見たり聞いたりアクセスできないものがきっと多いので、それはさぞ凄そうなイメージ。当時はまだ開発中だったメトロも便利なのだろうけど、DIFC近辺に泊まった自分は活動範囲的にタクシーの方が利便性高かったし(しかもそこまで高くないし)、1月は気候的に過ごしやすい(?)ので30分くらいの距離であれば運動がてら歩いた。朝と夕方以降限定の話だが、特に夕方以降は渋滞を避けられるメリットもあると思う。
 
これから所属企業のチームキックオフでデンバー、USに向かう。何故にデンバーなのだろう、、とぶつぶつ文句を言いながら、深夜フライトを待ち、致死量のカフェインを絶賛体内に投入中@空港。めちゃくちゃ暇になったので、昔を思い返し、当時のことを初めて文字に起こしてみようと思う。乱文お許しください。

Disclaimer - 中近東地域(バーレーン、ドバイ)に住んでいた学生が当時見たり周りから聞いたりして解釈してものを基に思い返して書いています。同地域の文化や宗教などの専門家ではないので、事実と異なる可能性あること予めご了承を。へぇそんなことあったのか、くらいの軽い気持ちで暇潰しに読んでもらうくらいが多分丁度いいです。

厳密には住んでいたのはバーレーンというサッカーの相手国くらいでしか話題に出てこない奄美大島くらいの小さな島国。「あれ高校の時にどこいたのだっけ?」と聞かれる時、諸々省略して(m(_ _)m)「ドバイ」と回答することもあるが、一時的に避難していただけ。じゃあ避難って何があったのよ?となるわけだが、2010-11年に渡ってアラブ半島各地で起きた民主化運動、通称「アラブの春」に巻き込まれ、外務省から国外退去命令を受けた。イスラム教にはシーア派とスンニ派という宗派があり、最近本を読んでいると諸説あるようなのだが、自分の解釈は元々対立関係にあったものが表面化したもので、チュニジア→エジプトと続いた動きに刺激され、バーレーンでも民主化運動のデモが勃発したことで国内は一時混乱状態となった。ことバーレーンは国民のほとんどがシーア派、一方で国を統治する王族はスンニ派、と後で知ったのだが、、、そもそも“ねじれ”が存在していたのである。いつ国民の一部の過激派がデモを起こしてもおかしくなった訳だが、同国はその対策として国民の教育や医療費の免除・無償化などの策を取り、均衡が保たれていた。元を辿ると同じ部族出身の王族を持つ隣国サウジアラビアとの地政学的な関係が強く、経済的に(因みに軍事的にも)支援を受けていて、長らく均衡が保たれていた一つの理由だったと聞いた。因みに、強制的に英語しか使えない環境に身を置く目的で入った学生寮では、自分以外はほぼ全員サウジアラビアの東部から来ていて、親は全員Aramco勤務という特殊環境だった。先に言ってしまうと、同デモ・一連の騒動は、サウジから来た軍によって鎮圧される。国外退去で空港に向かう途中の道路で、サウジから来た戦車とすれ違ったのだが、その光景は今でも鮮明に覚えている。
 
バーレーンってなんか危険な国?という印象を受けるかもしれないが、平和で住みやすかった(少なくとも自分は思う。今は落ち着いて平和らしい。)今や多くがドバイに移ったと聞いているが、某銀行で同地域の支配人を務めていた父や他の日系企業の同じような立場の方のレジデントがこぞってバーレーンにあったことがその証拠に、安全で住みやすい国と位置付けられていたのだと思う。石油関係や金融系の欧米企業もオフィスを持ち、外国人が多かった。イギリスの植民地だった過去もあり、中近東を訪れたことがない人が想像するほどイスラム、イスラムしていない。自分はアメリカ海軍系列の学校に通っていたこともあり、学校内はアメリカ!という感じで、なんかMIXだった。上手く表現できていない気もするが、何が言いたいかというと平和だった(雑
 
しかし、それが急に変わっていく。最初がどうだったか実は覚えていない。チュニジア、エジプトの件はニュースで、あとは友人達がFcaebookで色々と投稿したりコメントしたりしているのを見てはいたが、あまり自分事と思っていなかった。が、バーレーンでもデモが起き始め、学校は一時休講となり、寮生達は全員親元に戻ることになる。その判断が平日になされ、自分以外のほとんどがサウジに戻る中、自分は数日寮に残った記憶がある。父親がバーレーン以外のどこかにいたのだろう。事態は悪化し、当時父の同僚で何かと面倒を見てくださっていたバーレーン駐在の方が迎えに来てくださり、自宅まで送ってくれた。その時に思っていたよりも事態が深刻であることを知った。コンパウンドという家が集まって周りが城壁みたいなのに囲まれている場所だったので安全だったが、その外では街でデモに巻き込まれ死人が出るまでに至った。しばらく自宅に籠る生活が始まった。
 
ここからドバイに避難するまでの時系列が怪しいのだが、大きくあった出来事は二つ。一つは、東日本大震災。父が日本に残っていた母とSkypeで話をしていた時に急に揺れ、そのあとテレビで福島原子力発電所の悲惨な映像を見た。バーレーンはバーレーンで勿論大変な状況だったが、多くの友人や先生が心配の連絡をしてくれたことを覚えている。二つ目はバスケのドイツ遠征に行ったこと。結構無茶な判断だったと振り返って思う。父や同僚の方達、学校関係者、たくさんの大人に多大な迷惑をかけ、サポートしてもらい、行かせてもらったと記憶している。結果、これが当時のチームメートやコーチ陣と物理的に会う最後となった。遠征中か帰国して直ぐに国外退去命令が出て、学校の友人達や寮でお世話になった方達とは対面で別れを告げられないまま、一時ドバイに避難することとなり、その後そのまま日本へ帰国した。
 
表面化していなかっただけで長らく潜伏していたバーレーン国内における宗派の“ねじれ”は、近隣諸国で連続した動きに刺激されて姿を現し、平和な日常を変えた。生活のすぐ側に常にイスラム教があったのに、そんなことは当初知り得ず、ある種呑気に学生生活を過ごしていたら、かなり特殊な形で国外退去・帰国を余儀なくされた、という話でした。
 
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この一連の話、その後の高校編入、あとは大学入試でだいぶ擦り倒すこととなる・・苦笑。面接官の同情を買う作戦、というやつ。そのくらい必死だった、特に高校編入。なんせ急に学校に行けなくなり、まだ学年で言うと11年生(日本でいう高校2年)。当時履修していたカリキュラムも中途半端な状態で、当然卒業資格もない。カタール空港でボストンのボーディングスクールの学長と対面面接を父がセットしてくれた。当時は若く、絶賛“世界で一番不幸なのは俺”状態のアホだったので、どんな経緯であの場が設定されたのか知らなかったし、ちゃんと聞きもしなかった。恐らく両親があらゆるネットワークに掛け合い、設定してくれたのだと思う。両親含め本当に多くの大人の方にあの時サポートしてもらったことを後で昔話をしている中で知った。当時そんなことも知らず、感情をどこにぶつけていいか分からなくなった自分は、先に一人で帰国する空港の税関前で父に暴言を吐き捨てて日本に帰国したことを覚えている。タイムスリップしてぶん殴ってやりたい。
 
有難いことにそのボーディングスクールは受け入れてくれることになったが、その後帰国し編入試験を受けた某大学の附属高校に編入する。学年を一つ下げての編入で、その後も紆余曲折あったが、アラブの春の時に比べたら全て可愛いもの。かなり稀な体験なので、いつか文字に起こそうと思い気付けば10年以上が経ち、過去に何度か書こうとしては「これって誰に何のメッセージ?」と自問しては答えが出ず、また今度いつか書こう、と先伸ばしていた。今回機会に恵まれて中近東に戻ってきて(結局ドバイだけだけど)、当時避難時に通った店を巡る中で色んな記憶が蘇り、あまり深いこと考えずとりあえず文字に起こしておこうと思えた。時間の経過と共に記憶と当時の感情が薄れていってしまう気がしたので。
 
これがソーシャルで繋がっている人以外の誰に読まれるかは分からないけれど、もし当時お世話になった人達で連絡先が分からない人まで届いたら嬉しいなぁ。ここまで読んでくれた方もありがとうございます。日本は同時期に震災で大変で、アラブの春についてはあまり報道されていなかったと聞いています。なので、中近東でそんなことが起きていたということを知らなかった人、だいぶ後で知った人も多いのではないかなと。当時撮った写真があればもっと臨場感が伝わって良いのですが、使っていた古い端末と一緒に何処かへ・・・
 
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最後に

ドバイに着いて、ホテルにチェックインもせず最初に訪れたのは、当時週3-4ペース(もしかするとそれ以上)で通っていた「Bento-Ya」という日本食のお店。ドバイには日本食のお店がたくさんあって、高級なところからリーズナブルなところまで様々ですが、 Bento-yaはリーズナブルなお店。思い出補正が恐らくかかっていますが、味は美味しいと思います。メニューからは消えていましたが、致死量の天かすが乗ったたぬきうどんは聞いたら作ってくれました。相変わらずの量でした(褒めています)。

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