見出し画像

《書評》画期的な古典を読む│「精神分析入門 上」フロイト

 本書は、精神分析学の大家であるフロイトが、ウィーン大学で行った初学者向けの講義を記録したものである。上巻は、錯誤行為、夢、神経症総論の三部から構成されている。それ故、本書評は、それぞれのテーマを概説した後に、私見を述べる形をしたい。


錯誤行為

《概説》

 まず、フロイトは錯誤行為について解説する。錯誤行為とは、言い間違いや、書き間違い、ど忘れ、物の置き忘れなどである。精神分析では、これに意味を見出す。しかし、反対者は、「こんな些細な事に何の意味があるのか」と反発する。フロイトは反論する。例えば、男女の間で、相手の女性が好意を持っている事に気付くきっかけは、些細な徴候ではないか。例えば、ちょっとした眼差しなどではないか。些細な徴候には重大な事実が隠れているのだ。

 一般的には(この時代でも)、錯誤行為は、緊張や興奮などによってもたらされると思われてきた。しかし、完全に健全な時にも錯誤行為が起こる事の説明がつかない。では錯誤行為は何故起こるのか?フロイトは、例えば、言い間違いに対して、それがもたらす結果を考える事を勧める。即ち、「議会を開会します」と言うべき時に、「閉会します」と言ってしまった議長は、本心では、今回の議会は早く閉会してしまいたいと思っていたのだ。

《私見》

 精神分析が科学的ではないという批判を受けているのは有名な話だ。問題なのは、フロイト自身も述べている通り、精神分析の理論で自己分析を行い、理論が正しいと自ら考えられるか、である。無論、自らによる確信が、理論的な正しさを証明するかというと怪しい。しかし、精神分析は実際にここまで歴史的な権威性もあり、効き目もあるではないかと言う。しかし、効果を上げる事ができ、広く親しまれているという点では、占いも同じである。

 占いと精神分析を区分けする根拠は何か。ひとつに、精神分析は臨床的な実践によって裏付けられている。ふたつに、精神分析の理論は極めて体系的であり、心理を包括的に説明出来る。これらは、客観性を持たない、科学的でないという批判への直接的な反論にはなっていないが、少なくとも有用性の根拠ではある。

 さて、錯誤行為の記述は大変興味深い。フロイトを読むのはこれで三冊目(一冊目は「メタサイコロジー論」、二冊目は「人はなぜ戦争をするのか」)であるが、フロイトは類比による説明が大変上手である。そして、フロイトの理論は、直感的な、巷で言われているような理論と上手く噛み合っており、説得力がある。錯誤行為に関してもそうである。即ち、「そりゃ本心が漏れ出たんだよ」といった具合である。

  そして、最後には、精神分析家が錯誤行為の意図を説明した時に、「そんな意図はない」と抵抗するケースを理由に、無意識の存在を説明する。つまり、意識には上っていない意向が存在するという。この話を聞いて、魂の三分説(魂は理知、気概、欲望の三部からなるとする説、プラトンが提唱)の論証を思い出した。三分説では、意識内において対立が認められる為に部分に分割するという理屈だったが、無意識の場合は意識外の意図を理由とする。

 現代においては、無意識という概念は広く受け入れられている。「無意識的に─」という言い回しはよく使われる。しかし、フロイトがこれを提唱するまで、一般的ではなかったと思うと感慨深い。この概念は論理的には十分に仮定しうるものだというのを再確認出来る。

夢分析

《概説》

 次にフロイトが持ち出したのは夢である。題材として、錯誤行為ならまだくだらない事ぐらいにしか言われなかったが、夢ともなると迷信家と言われてしまう。しかし、フロイトは、夢は心理現象だと仮定を置く。仮定を置くのに根拠はない。ただ、こう仮定したらどうなるかを見ようというのだ。更に、夢について夢を見た当人は意味を知っているが、知っている事を知らないという仮定を置く。一応、「知っている事を知らない」事があるのは催眠実験によって証明されている。最後に、当人が夢を見る理由について説明した事を解とするという仮定を置く。

 さて、夢は無意識の代理物である。これは、錯誤行為と同じ類比によって根拠付けられる。即ち、錯誤行為が無意識的な意向の顕現だったように、夢もまた無意識の顕現である。ここで、自由連想という、浮かび上がらせた代理物(無意識の)から、無意識を解き明かす手法が説明される。

 ここで、小児の夢を例に出して、夢は、願望成就であると解明される。これは有名な話である。また、夢は、眠りたいという意向と、心的活動を行いたい(願望成就したい)意向の妥協として生まれる、という。しかし、願望成就には検閲がかかる。

 夢の中では、性的なものは象徴として現れる。ここからフロイトの真骨頂である。例えば、部屋は女性器の象徴であるし、ドアが開くのは姦通である。細長いものが男性器なのは言うまでもなく、池は母胎の象徴である。

《私見》 

 夢の中で現れるものが、性的なものの象徴であるというのは、実際にこれらが現実で象徴として扱われていた(例えば旧約聖書で「ドアが空いていた」は既に姦通されていたの意)事を理由とする。だが、結局、これら全てを性的象徴として捉えたらとんでもない事になる(現実でドアが開くたびに性的なものを浮かべるのか?)。

 例えば、彼女を銃撃する夢を見たとして、銃=ペニス、弾=精子で単に彼女とセックスしたかっただけだと解釈したら別の意味で面白い。いや、殺害欲求だろうと普通は解釈するのだが、その場合、この象徴理論は葬られるのではないか。なんにせよ、夢に表出するのはこの手の性的な欲求ばかりとするのは、それ以外の欲求が夢に出てこないという事になり違和感がある。

 実際、後の精神分析家でも、このフロイトの夢解釈には反発が多かったようだ。私はフロイト理論の性に還元する一元的な考え方が好きなので(一元論の中でもわざわざ性に還元するのが画期的で面白い)、最大限擁護したかったのだが、読んでみての感想は、「この理論は相当特殊な考え方を前提にしている」といった具合だ。幾つかの夢はこのように解釈すると意味が通って、意味が通る事を理由に理論は正しいと思うかもしれない。しかし、何にせよ他の解釈理論も参照する必要がある。

 さて、夢分析においてひとつの夢が複数に解釈できる問題について、フロイトは弁明を行う。恣意的な夢解釈が出来るという批判に対して、フロイトは、恣意的なのではなく、精神分析家の経験、熟練によって解釈されていると反論する。原始的な言語のように、そのままの読解は困難を極めるが、精神分析家の読解が一致している場合、それは読解出来たとみなされるという。

 果たして、この理屈がどれだけ成り立っているかは怪しい。なぜ同じ文法で読解できるのかは大変不思議なのであるが、少なくともフロイトの幾つか紹介した解釈は私から見ると到底唯一解とは思えない。しかし、フロイトはそういった反論自体に精神分析的な意味付けをする為、ある種の宗教家が展開するような無敵論法の類にも見えなくない。ともあれ、私は、夢分析の具体的方法についてはもう少し深く学びたいと思った。

神経症総論

《概説》

 フロイトは、神経症の症状も、夢と同様に解釈する事で、それを引き起こしている原因を解明する事が出来ると説く。例えば、寝る前に儀式的行動を行う強迫神経症の女性を例に上げる。彼女が時計を寝る前に部屋から出すのは、時計のカチカチという音が陰核の搏動に相応し、不安を掻き立てられるからである。

《私見》

 凄まじい。そのような性的な方面での解釈が正しく、神経症者を治す事が出来るとしたら、劇的な事だ。しかも、フロイトは現にこのような分析を行って治してしまっているのだ。フロイトによると神経症症状は性的な欲望の充足を目的としている。そして、症状は無意識によって作られるので、意識化してしまえば症状は表れなくなるという。

 少なくとも、実際に治ったケースに関して言えば、フロイトの理論が正しいから治ったとする他ないのではないか。症状が欲望充足、というのは、ある種のドライな視点を呼び起こす事にもなるだろう。僕が最近考えている仮説として、世の中の事は大抵の場合、全て思い通りに行っているというものがあるのだが(病気なども全て合目的的であるという論)、それを思い起こした。自己責任論は正しいのかもしれない。

総評

 ところで、この講義は1915年から1917年の、2年間かけて行われたものである。それをたった4日間程度の読書で内容理解できたのはあまりにも素晴らしい。4日間と書いたが、そう、読むのにはだいぶ時間がかかった。550ページ自体は小説ならばあまり大した事はないのだが、幾分、学問的な難しさもあって(時間を要した)。

 また、「嫌われる勇気」(アドラー心理学をベースとした自己啓発本)において、「フロイトのような原因論に反発して、アドラーは目的論を提唱した」と論じていたのだが、フロイトも結構目的論的である。というのも、フロイトにとって錯誤行為は全て合目的的な行為(そこで発生した結果に基いて分析される)だからだ。神経症に関しても、ある意味では目的論的な考えをするフロイトに対して、アドラーは影響を受けたというのが実際ではないのか。

 まず、この講義全体に関して。フロイトの精神分析については事前に知識をある程度持っている人にとっては、目新しい記述はないだろう。だが、性的欲望を神経症によって達成しようとしているとする論など、興味深い箇所も多くあった。また、読むのに退屈はしないが、冗長な箇所は多く、またフロイトの仮想的批判に対する反論箇所は、正論に思えない箇所が多くあるのも事実である。

 総合的に言うと、結局の所、最後には、臨床経験の裏付け(症例)によって、フロイト理論は正しいのではないかという気になった。本書は、現代から見れば歴史であるが、当時としては思想革命であったフロイト理論がリアルに体験できるという点で、良書であった。私の中に、フロイトが所々で批判者として出すような、教育者や道徳家的な性格があればもっと楽しめただろう。というところで、筆を置こうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?