プロフィールに代えて。
春になると毎年読み返している本があります。それは、梨木香歩さんの「春になったら苺を摘みに」という本です。
この本は著者である梨木さんがまだ作家としてデビューする前、イギリスに留学していた頃の思い出を語ったエッセイ集です。
本書の中には「子ども部屋」と題された章があります。それは、こんなお話。
ある日、梨木さんはコッツウォルズからソールズベリへ行き、湖水地方やスコットランドをぐるりと回る旅の計画を立てます。
すると、その計画を聞いたホームステイ先のウェスト夫人が彼女にグラスミアへ行くことを勧めるのです。
グラスミアの村にはクウェーカー教徒たちの組合が運営しているホテルがあるとのこと。
ウェスト夫人はそう言うのでした。
北方への旅に出た梨木さんはグラスミアの村に訪れます。そうしてウェスト夫人に勧められたホテルに宿泊し、トレッキングに出かけるのです。
山の頂上まで来て一息つきながら、彼女は考えます。
それはクウェーカー教徒でありながら、決して自分に対して信仰を勧めてこようとはしないウェスト夫人のこと。ベジタリアンで、若くしてアメリカに旅立ってしまったウェスト夫人の次女のこと。ウェスト夫人の元夫であるウェスト氏のナニー(家庭教師)であったドリスのこと……
ウェスト夫人は決してクウェーカー教徒に勧誘してはこなかったけれど、でも、彼女の中にはどこか彼らの生活上の信念に共感する部分があったのでした。
無駄なものをすべて削ぎ落とし、ただ内なる神とのコンタクトにのみ焦点を当てる、そんな生活。
でもその一方で、そんな修行僧のような生活ではなく、もっと日常を深く生き抜いていきたい、働き者で忠義者だったドリスのように。
彼女は思います。
僕たちは、心のどこかで「一貫性」というものを信じすぎているような、そんな気がします。
心の中に「相反するベクトル」を持っていることは、なんだかいけないことのような、いや、いけないわけではなくとも、それはどこか「弱さ」であるような、そんな気が。
でも、もしかしたらそうではないのかもしれない。もしかしたらそれは、本当は「弱さ」ではなく、「豊かさ」なのかもしれない。
そんなことを考えながら、ふと思い出したのはこの章の舞台の近くである湖水地方の詩人ウィリアム・ワーズワースのこんな言葉でした。
日本語では「在素知贅」とも訳されます。生活は素朴に、しかし思考は高尚に。
この言葉ももしかしたら、梨木さんが言うような「相反するベクトル」なのかもしれません。
素朴に生きようとする人は、難しいことは考えないでおこうとするし、難しいことを考えるのが好きな人は、素朴に生きることを見下したがる。「plain living, plain thinking」か、「high living, high thinking」のどちらかを選ばなければならないような、そんな強迫観念みたいなものがある気がするのです。
僕にはプロフィールとして誰かに語れることなど何もないのです。僕は本当にただの一人の人間。いまだ何も成し遂げていないし、多分この先も何も成し遂げることはない。
今読んでくれているあなたに何か有益な情報なんてとても与えられない。むしろあなたと同じように、何か有益な情報を喉から手が出るほど欲しがっているような、そんな人間です。
だけど、「plain living」でありながら「plain thinking」から抜け出すことはできるのだろうか。
あるいは、「high thinking」しながら「high living」を望まずにいることは。
そんなことを、これからつらつらと考えていきたいと思っています。
このnoteは、僕にとってのそういう場所です。
最後に宣伝を。
電子書籍を発行しています。
140字の童話のような寓話のような詩のような、そんな作品を140篇まとめた作品集。
短編小説集
「月の光とピエロ」
もしこのnoteの記事を読んで興味を持ってくださった方がおられましたら、これらの本も読んでくれるとうれしいです。
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